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2006年8月21日 (月)

王になろうとした男 ジョン・ヒューストン

王になろうとした男 Book 王になろうとした男

著者:ジョン ヒューストン
販売元:清流出版
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 自分でもお分かりだったようだが、ジョン・ヒューストンにはスタイルと言ったものがない。と言うのは嘘で、どんな監督であれ、カメラがあって役者がいて監督がいればその監督のスタイルといったものは自ずと生まれるはずだろう。が、謙虚にヒューストンはベルイマンやブニュエル、或いはフェリーニらを例に出して、作家の内面から自己表現を試みる彼らを尊敬しながら、一方で、自分は彼らとは「違う」と語る。雑多な材料で映画を創りながら、そこに見出した文法を大事にしていこうとしている(私は映画も大事だがボクシングや狩も同じくらいに人生では大事だとか本気なのか嘘なのかわからないようなことも言っているがこれも本気だろう)

 前半はヘミングウエイの話だとか、時系列を追った作品と交友関係の話が中心なのだが、後半、晩年に至ってのヒューストンなりの達観した映画論と言うか演出論が出てくるところが面白い。例えば、マスターショットを舞台のようになんでも網羅するように撮って、その後で、拾い落しがないようにクローズアップ、ミディアムとシーンの全て撮って、編集でどうしようか悩むと言うやり方は無駄だと言っている。それより「そのシーンの中で重要なショットをまず導き出し、そこを撮ってから、次のカットを撮っていく方がいい」とヒューストンは説く。かいつまむと、意思を持ったキャメラポジションと言うものが映画には必要であり、演出とは物語を無駄なく「どう伝えるのか?」が大事だと。

 例えば、幌馬車を移動で撮っていると、そこに物語の重要な人物が出てくる。幌馬車はフレームアウトしていくが、カメラはその人物の歩き出しと共に移動し、さらに新たな人物を捉える。カメラは移動をやめる。最初の人物はそのまま歩き去るが、フレームには最後の男が残される。男は振り返り、去っていった男を見る。実はこの男こそ更なる重要人物だ。と言うように、一つのシークエンスが次のシークエンスを呼び込み、カメラワークからは無駄を省くことが重要だと語る。カット割っても、割らなくても恐らく手間は一緒なのでできればこういったワンカット内でのショットの移り変わりによって物語を進めた方が演出的には「かっこいいよ」と言うようなことをヒューストンは言っている。これは中々勉強になった。勿論、イーストウッド監督主演の傑作「ホワイトハンター ブッラクハート」のモデルにもなったアフリカでの映画撮影の秘話など読み物としても面白い。

僕は数週間ほど前に『ケータイ刑事銭形雷 最終回』を撮りに行く朝、毎日ある一節を読んで出かけていた。その一説は

 「それ自体スタイルを持ち、活力に溢れたショット、映画の全体像と調和するショット、を見つけるべく努力するのだ。俳優には俳優のペースがあり、監督にはまだそれも見えていない。しかし、パニックに陥る必要はない。俳優や撮影クルーにどう思われようと心配するのも無用(監督は何もわかっちゃいないと思われたところでどうでもいいではないか)不安に駆り立てられると過ちを犯すだけだ(中略)俳優は時間と余裕を与えられれば、自分の位置を自然と見出す。そしてそこからどう言うタイミングでどう動くか理解するようになる。こちらがそれを撮ればいいだけだ」

 

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