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2006年9月30日 (土)

グエムル 漢江の怪物

 初冬に撮る予定の映画のキャスティングもようやく固まり始めて、それに則してキャラクターの変更や、映画そのものの方向性も若干修正が必要になってきたので、原作を読み直したり、参考になる映画をDVDで集めたりの日々が続く。来週の脚本打ち合わせでもっといろいろ見えてくるようになるだろう。

 さて、昨日は三日続けての映画鑑賞で「グエムル 漢江の怪物」を観る。僕らが観て来た怪獣映画とはちょっと異質の印象で、映画としてはボ・ジュノ監督による「殺人の追憶」と被る。映画は中々の力作だったと思うが、もう少し端折れる部分があってもいいかなと、少女が落とされた排水溝の高さの表現とか、もっと効率のよい描き方は出来なかったかなと思うし、ラストのクライマックスの音楽の過剰な盛り上げはちょっと苦しかった。それでも、ハリウッド製怪物映画の表層的な追体験を回避してあくまで、オリジナリティある「韓国の日常に現れた怪獣映画」を構築したところは楽しめた。そういった意味では、米軍と韓国政府によるウイルスの捏造部分などは類型的で、主人公が捉われてしまうと言う制約の為にしか機能していなかったので、この手の陰謀を描かせるなら「エイリアン」のイアン・ホルムのような象徴的存在を一人出してそいつの行動軸と主人公との対立を描いた方が効率的だったのではないかと思う。米軍関係者と韓国人通訳のやりとりを聞いてしまうだけで真実が判明すると言うのは説明のための説明にしかなっていなくて、いくら個性的な顔つきの役者をキャスティングしても、映画的なアドレナリンには直結しなかった。

 この映画を観ていて思い出したのは13,4年前に黒沢清監督と高橋洋さんで企画し、第1稿までは上がっていた「水虎」と言う怪物映画。この映画の脚本に向けての詳細は、偽書簡日記として黒沢清著「映像のカリスマ」に読むことが出来るが、ペットとして飼われていた「カミツキ亀」が、茨城かどっかの水路で成長し人を襲うと言う恐怖映画で、基本的には「JAWS」を狙ったものだったように思う。脚本から想像する怪物の大きさは「グエムル」と丁度同じような大きさではなかったか?ラストに迷路のように走る水路から水門へ誘い込んで、その水門で甲羅ごと叩き殺す場面は「グエムル」以上に興奮させられるシーンだったが、エピローグで主人公たちがこの亀の肉を食べてしまうと言うアイディアは脚本に書かれていたものなのか、高橋さんの口からのみ聞いて、脚本では割愛されてしまっていたかはさすがに10年以上前に一度だけしか読んでいなかったので定かではない。

 この頃のディレカンで映画にならなかった脚本や、黒沢さんの自身が書いて映画にできなかったプロットなどは今でも残っているが設定だけでも魅力的な「ミクロコップ」だとか、この「水虎」だとかはいずれどこかで映画化されて欲しいと本当に思う。

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