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2006年10月26日 (木)

間違いなく本年ナンバーワンの傑作だった「ブラック・ダリア」

 あとで、いろいろ書きますが、とりあえず今年観た数少ない「映画」の傑作だったと思います。

今週は脚本提出前の推敲をしながら2本の映画を観た。一本は、M・ナイトシャラマン監督「レディ・イン・ザ・ウオーター」もう、一本はブライアン・デ・パルマの「ブラックダリア」。2本共に僕にとっては必要な映画だった。「レディ~」も「ブラックダリア」も現在のハリウッド映画全盛の「説明の為の説明」を繰り返す論法から逸脱し、ひたすらに自分が信じている映画を撮っている映画だったからだ。先日「JAWS」を上映しながらの黒沢清監督の講義を何度も思い返しながらこの2本を観た。その講義では、「JAWS」においては、ロイ・シャイダーの所長が「いかにして鮫退治に本気になったのか?」を描く為に相当な時間を割いており、それほどまでに観客に「わからせる」努力をしていた。それが、以降のハリウッド映画に顕著になって、80年代以降のハリウッド映画と言うのは「説明」と「わかりやすさ」の映画になっていった。と。 この2本は、そういった「わかりやすさ」とは対極の位置にある。では、「物語」とはなんなのだろう?物語を伝える為だけに映像を使うのが映画なのだろうか?僕は違うと思う。自分が納得してしまう自己完結をしなくても、魅せる映画はいくらでもあったのに、80年代以降のアメリカ映画は『わかり易さ』の代償に、そうした表現を封殺してしまった気がする。

 「ブラックダリア」なんか、40年代のアメリカ映画を再現する為だけに創られたんじゃないかと思うほど、どのカットをとっても映画的な時間が流れていて、もうその時間が絶対に終わって欲しくないという媚薬のような魅力ある素晴らしい表現が宝石箱のように散らばっている映画だ。

 別に『わかり易い』映画が駄目と言っているわけではない。もっと、映画はいろいろな楽しみ方があっていい。そう思うだけだ。「レディ・イン・ザ・ウオーター」と「ブラックダリア」2本共に「自分を信じる力」を与えてくれたと思う。映画を創るモチベーションが上がってきたぞ!

  少なくても「ブラックダリア」を観て、40年代のフィルムノワールをたくさん見たくなってしまったことは確か。とりあえずルノアールの「浜辺の女」でも観るかな。

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コメント

Still she was no sooner fastened on him.

投稿: pilates sale winsor | 2007年2月 4日 (日) 11時19分

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