自主映画 仁義なき戦い
今回は敬称を略させていただきます。
今を遡ること25年前。東京には群雄割拠する自主映画グループの中で、大きな勢力図があった。まず、長崎俊一、石井聰互、矢崎仁司を中心として纏まっていた日大芸術学部系で、ここには役者を兼ねてプロデュース的なこともやっていた内藤剛志、内藤の友人の諏訪太朗もこのグループに属していた。このグループに割と近いところに、早稲田シネ研があって、山川直人、武藤起一らとの人材交流もあり、山川作品に長崎俊一が出演したり、武藤が長崎作品の8ミリ映画でカメラマンをやったり、山川映画のヒロインだった室井滋が長崎作品に出演したりしていた。系列は全く違うが、ここに山本政志、飯田譲治なども連なって、一大王国を形成していた。時を同じく、黒沢清、万田邦敏を頂点に立教SPPと言う団体が傑作を連発。敵対していたわけではないが、万田の口から「野蛮で好きではない」と言うような言葉は何度か聞いたことがある。早稲田シネ研は、その後、SPPとも連携していたし、「ドレミファ娘~」の現場には「革命前夜」の暉峻創三(法政)もいたりした。確か、園子温も法政絡みで現場の掃除とかに来ていた気がする。
「仁義なき戦い」と銘打ったが、実際に抗争が起こったりしていたわけではない。しかし、なんとなく牽制する雰囲気はあった。事実僕が「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の現場に入った時、「よその組のものとちゃらちゃらすない!」と「仁義なき戦い 頂上作戦」の三上真一郎のセリフを真似して矢崎のおじきに怒られたことがある。僕は、長谷川和彦監督を頼って上京してきたが、住んだのは高円寺にある寿荘と言う木造アパートだった。ここの主のように住んでいたのが矢崎仁司監督で、矢崎が地方に上映に行って矢崎の人柄に惚れて上京する若者たちの住処にもなっていた。一時期はアパートの殆どが自主映画青年か、役者を目指す怪しい男たちで、古かったせいもあるが、きちんとした手続きもなく勝手に住み着いては家賃をたまに払いに行くと言うもので、僕は北海道で自主映画の先輩だった森永憲彦と言う男を頼ってここに住み着いたのだが、まともな契約はなく、挨拶だけしにいったのを覚えている。この「寿荘」には毎夜のように、長崎組系の自主映画青年たちが来て酒盛りをしていた。そして「仁義なき戦い」に傾倒する矢崎は長崎俊一を「オヤジ」と呼ばせ、矢崎を「オジキ」と呼ばせようとした。そして、酒が入って酩酊状態になるとあろうことか、長崎組の一員になるには「杯を交わす」と言う名目で「仁義なき戦い」の菅原文太と梅宮辰夫が刑務所で「杯がないけん」と、自分の肘をカミソリで切ってお互いの傷から「血をすすり合う」と言うあの儀式をふざけ半分やらされた。僕は怖がって逃げて歩いたが、緒方明がカッターナイフで自分の肘を切り過ぎて、流血騒動となり大騒ぎになりかけたこともあった。あと、片手に8ミリカメラを持って自分へレンズを向け、もう片手にリボルバーのモデルガンを持ち、一発だけ平火薬の入を入れて、ロシアンルーレットのように、耳元で撃ってその反応を撮る。と言う肝試しもやらされた。
僕は立教SPPの人たちとの個人的な交流はなかったが、「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の助監督をやった関係から、黒沢清個人との付き合いは長く続いていた。万田邦敏は上記のような喧騒を忌み嫌ったが、黒沢清は好奇な目で見ていた。そして、あろうことか長崎俊一を自分の作品に「ネタ」として出演させようと画策した。「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の1年後の再撮の折に相米慎二をモデルにした謎の男がコンテに描かれていたのを見たことがあるが、「相米がダメなら長崎さんではどうだろうか?」と、相談を持ちかけられたことがあった。また、「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」の大杉漣の演じた役を長崎俊一ではどうだろうか?と、初期段階で相談されたこともあった。これは実は長崎俊一には実に失礼な話で、長崎さんが普段マジメで格好つけているように見えたので、そういう人にカメラを向けるととても面白い反応になると言う実に人の悪い画策だった。僕が中原昌也を使って何本か自主映画を撮ったが、この黒沢清の陰謀の記憶があったからだと思う。
さて、この対立していたわけではないが、なんとなく距離のあった二つのグループを結びつけたのがこの僕だ。長崎俊一監督で僕が脚本を書いた日活ロマンポルノ風のVシネに蓮實重彦風の大学教授として黒沢清に出演して貰ってから、僕が助監督でついた長崎作品には殆ど黒沢清は出演している。「誘惑者」で草刈正雄にマイクロフィルムを手渡す図書館の学芸員。「夜のストレンジャー」で、女にふられてホテトルを買いに行こうとイヤイヤついてくるサラリーマン。この時の同僚を諏訪太朗と僕が演じている。「最後のドライブ」で玉置浩二が自首する交番の警官。「ナースコール」で渡部篤郎のレントゲンを撮る技師。全て、主役と絡む「役者」として出演し、全て僕が出演交渉を行ったが、一度も断られたことはなかった。「ナースコール」は編集の都合上本編にはなくなったが、この報告をしたとき寂しそうな顔をして「クレジットの名前はどうしますか?」と聞いたとき「僕がここにいたと言う存在証明のためにも残しておいてくれ」と言われた。
こうして、長崎俊一と黒沢清の間に小さな友情が生まれ始め、最初は好奇な目で長崎俊一を見ていた黒沢清も、プライベートな飲み会を楽しむようになって、何回か飲み会を設定した覚えがある。長崎組と黒沢組の手打ちとなったわけだ。その証が前にも紹介した黒沢清脚本、長崎俊一監督の幻の2時間ドラマの企画だった。あれが実現していれば、相当に面白いものが出来たと思うが、実に残念だ。
その後僕が独立してから、こういう機会は減った。青山とか新しい存在も出てきたし、Vシネブームでみんな本当に忙しくなってしまったのだ。それでも当時の人々はしぶとく映画を作り続けている。みんな50を過ぎて初老の領域に入ろうとしているが、元気だ。
矢崎の「オジキ」が久々に新作を撮ったと言うニュースを見て、いろいろと思い出したのだった
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コメント
ご無沙汰しています。貴重な証言ですね。
高円寺のアパート、藤子さんの「まんが道」ならぬ「えいが道」みたいで、いいなあ。
昨日、タバコを吸う脚本家と会いました(笑)
期待しています。また近いうちに会いましょう。
投稿: 篠崎 | 2009年12月11日 (金) 07時14分
黒沢さんも1度だけこのアパート訪れたことがあります。「逃走前夜」のフィルムを持ってきて、四畳半の壁に映して僕の撮った8ミリ映画と一緒に観た記憶があります。
「ドレミファ娘の血は騒ぐ」が終わってから「スイートホーム」が始まるまでの3年間は、毎日毎日喧騒の日々で殆ど寝ないで酒を飲んで映画の話をしたり、遊んでいた記憶がありますね。でも、またあの頃に戻りたいかと言うと戻りたくはないですねえ。
投稿: SASAKI | 2009年12月11日 (金) 08時54分