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2009年12月6日 - 2009年12月12日

2009年12月12日 (土)

ミレニアム ドラゴンタトウーの女とか 高橋洋とナチの話とか

全世界で2100万部を売り上げたと言うミステリー小説の映画化。つい最近の「このミステリーがすごい」でも堂々の2位だから、小説は情報の楽しみ方も含めて面白いのだと思う。映画はヨーロッパ映画独特の背徳感漂う、サスペンスミステリーを美しい北欧の風景と共に描き出す。だが、病的なサイコを描いているのだがもう一つアメリカ犯罪映画のような怖さがないのは、同時代性と言うことなのだろうか?タイトルの「ドラゴンタトウー」の女は、魅力的なキャラクターだったが、犯罪性の本質に人間の闇がもう一つ描ききれていないのが残念だった。「セブン」や「羊たちの沈黙」以降の難しさを感じる。映画のモチーフにもなっている、ナチの残像と言うのが、きっとヨーロッパではいまだに恐怖の記憶が残っているのかもしれないので、その点で原初的な怖さが僕らとは違うのかもしれない。それは思想的と言うより遺伝的に染み付いてる感情だろうか?見終わった後で、宣伝部の女の子に「横溝正史みたいだねえ」と言っている初老の批評家らしき人がいたけど、ナチの面影と言うのは日本の土着的な怨恨と通じるものがあるのだろうか?僕にとってはナチの残党と言うと「キイハンター」で室田日出男さんが演じていた、狂った男のイメージが強い。映画自体は前半いらんエピソードがあるなあと思っていたけど、帰りに続編以降の原作の解説を読むと、どうしても描いておかなくてはいけないエピソードのようだった。

ナチと言えば高橋洋。かつて「発狂する唇」のネタ合わせをしていた時に「こんなのはいかがでしょう?」と語ってくれた話があるが、それがナチに絡む話だった。戸来(ヘライ)村と言う、キリスト教信仰の伝説がある村が舞台で、戦中、ナチ、それもゲシュタポに憧れる一人の憲兵がいた。イメージキャストは菅田俊。彼は、風呂屋の息子で、憲兵でありながら余りにもゲシュタポのスタイリッシュな服装に憧れるあまり、母親にゲシュタポのコートを縫ってもらう。やがて戦局が悪くなってくると、男は発狂し始め、ナチのユダヤ殺害に感動し、自らの風呂屋を改造して収容所と呼び、村中の女たちをユダヤ狩りと称しては監禁し陵辱の限りを尽くす。そして最後には風呂場に毒ガスを仕込んで皆殺しにしたのだ。・・・それから40年後。若い男女の大学生がこの村に研究にやってくると、この男の亡霊更には虐殺された女たちの亡霊が巨大な怨念のエネルギーと化して、若者たちを次々に襲い始める。と言うような内容だったろうか?このプロットは、「血を吸う宇宙」の企画の折に一瀬さんに口頭で聞いて貰ったことがあるような気がするけど、実現化しなかったのはきっと却下されてしまったのだと思う。

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2009年12月11日 (金)

自主映画 仁義なき戦い

 今回は敬称を略させていただきます。

今を遡ること25年前。東京には群雄割拠する自主映画グループの中で、大きな勢力図があった。まず、長崎俊一、石井聰互、矢崎仁司を中心として纏まっていた日大芸術学部系で、ここには役者を兼ねてプロデュース的なこともやっていた内藤剛志、内藤の友人の諏訪太朗もこのグループに属していた。このグループに割と近いところに、早稲田シネ研があって、山川直人、武藤起一らとの人材交流もあり、山川作品に長崎俊一が出演したり、武藤が長崎作品の8ミリ映画でカメラマンをやったり、山川映画のヒロインだった室井滋が長崎作品に出演したりしていた。系列は全く違うが、ここに山本政志、飯田譲治なども連なって、一大王国を形成していた。時を同じく、黒沢清、万田邦敏を頂点に立教SPPと言う団体が傑作を連発。敵対していたわけではないが、万田の口から「野蛮で好きではない」と言うような言葉は何度か聞いたことがある。早稲田シネ研は、その後、SPPとも連携していたし、「ドレミファ娘~」の現場には「革命前夜」の暉峻創三(法政)もいたりした。確か、園子温も法政絡みで現場の掃除とかに来ていた気がする。

 「仁義なき戦い」と銘打ったが、実際に抗争が起こったりしていたわけではない。しかし、なんとなく牽制する雰囲気はあった。事実僕が「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の現場に入った時、「よその組のものとちゃらちゃらすない!」と「仁義なき戦い 頂上作戦」の三上真一郎のセリフを真似して矢崎のおじきに怒られたことがある。僕は、長谷川和彦監督を頼って上京してきたが、住んだのは高円寺にある寿荘と言う木造アパートだった。ここの主のように住んでいたのが矢崎仁司監督で、矢崎が地方に上映に行って矢崎の人柄に惚れて上京する若者たちの住処にもなっていた。一時期はアパートの殆どが自主映画青年か、役者を目指す怪しい男たちで、古かったせいもあるが、きちんとした手続きもなく勝手に住み着いては家賃をたまに払いに行くと言うもので、僕は北海道で自主映画の先輩だった森永憲彦と言う男を頼ってここに住み着いたのだが、まともな契約はなく、挨拶だけしにいったのを覚えている。この「寿荘」には毎夜のように、長崎組系の自主映画青年たちが来て酒盛りをしていた。そして「仁義なき戦い」に傾倒する矢崎は長崎俊一を「オヤジ」と呼ばせ、矢崎を「オジキ」と呼ばせようとした。そして、酒が入って酩酊状態になるとあろうことか、長崎組の一員になるには「杯を交わす」と言う名目で「仁義なき戦い」の菅原文太と梅宮辰夫が刑務所で「杯がないけん」と、自分の肘をカミソリで切ってお互いの傷から「血をすすり合う」と言うあの儀式をふざけ半分やらされた。僕は怖がって逃げて歩いたが、緒方明がカッターナイフで自分の肘を切り過ぎて、流血騒動となり大騒ぎになりかけたこともあった。あと、片手に8ミリカメラを持って自分へレンズを向け、もう片手にリボルバーのモデルガンを持ち、一発だけ平火薬の入を入れて、ロシアンルーレットのように、耳元で撃ってその反応を撮る。と言う肝試しもやらされた。

 僕は立教SPPの人たちとの個人的な交流はなかったが、「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の助監督をやった関係から、黒沢清個人との付き合いは長く続いていた。万田邦敏は上記のような喧騒を忌み嫌ったが、黒沢清は好奇な目で見ていた。そして、あろうことか長崎俊一を自分の作品に「ネタ」として出演させようと画策した。「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の1年後の再撮の折に相米慎二をモデルにした謎の男がコンテに描かれていたのを見たことがあるが、「相米がダメなら長崎さんではどうだろうか?」と、相談を持ちかけられたことがあった。また、「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」の大杉漣の演じた役を長崎俊一ではどうだろうか?と、初期段階で相談されたこともあった。これは実は長崎俊一には実に失礼な話で、長崎さんが普段マジメで格好つけているように見えたので、そういう人にカメラを向けるととても面白い反応になると言う実に人の悪い画策だった。僕が中原昌也を使って何本か自主映画を撮ったが、この黒沢清の陰謀の記憶があったからだと思う。

 さて、この対立していたわけではないが、なんとなく距離のあった二つのグループを結びつけたのがこの僕だ。長崎俊一監督で僕が脚本を書いた日活ロマンポルノ風のVシネに蓮實重彦風の大学教授として黒沢清に出演して貰ってから、僕が助監督でついた長崎作品には殆ど黒沢清は出演している。「誘惑者」で草刈正雄にマイクロフィルムを手渡す図書館の学芸員。「夜のストレンジャー」で、女にふられてホテトルを買いに行こうとイヤイヤついてくるサラリーマン。この時の同僚を諏訪太朗と僕が演じている。「最後のドライブ」で玉置浩二が自首する交番の警官。「ナースコール」で渡部篤郎のレントゲンを撮る技師。全て、主役と絡む「役者」として出演し、全て僕が出演交渉を行ったが、一度も断られたことはなかった。「ナースコール」は編集の都合上本編にはなくなったが、この報告をしたとき寂しそうな顔をして「クレジットの名前はどうしますか?」と聞いたとき「僕がここにいたと言う存在証明のためにも残しておいてくれ」と言われた。

 こうして、長崎俊一と黒沢清の間に小さな友情が生まれ始め、最初は好奇な目で長崎俊一を見ていた黒沢清も、プライベートな飲み会を楽しむようになって、何回か飲み会を設定した覚えがある。長崎組と黒沢組の手打ちとなったわけだ。その証が前にも紹介した黒沢清脚本、長崎俊一監督の幻の2時間ドラマの企画だった。あれが実現していれば、相当に面白いものが出来たと思うが、実に残念だ。

 その後僕が独立してから、こういう機会は減った。青山とか新しい存在も出てきたし、Vシネブームでみんな本当に忙しくなってしまったのだ。それでも当時の人々はしぶとく映画を作り続けている。みんな50を過ぎて初老の領域に入ろうとしているが、元気だ。

矢崎の「オジキ」が久々に新作を撮ったと言うニュースを見て、いろいろと思い出したのだった

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2009年12月 9日 (水)

古木克明に関して私が知ってる二三の事柄

 オリックスバファローズの古木克明選手が昨日、格闘技選手への転身を発表した。98年オフ。松坂大輔のハズレ1位として、横浜ベイスターズにドラフト1位指名された古木は、当時のマシンガン打線の次世代のヒーローとして大事に育成されていた。妻は豊田大谷高校時代から古木のことをよく知っていたので、余計に応援していた。僕と妻が初めてデートをしたのが99年7月の横浜対ヤクルト戦だったが、その試合で古木は1軍打席デビューを飾っている。そんな縁も有って入団以来僕らは古木選手を応援してきた。2軍の試合にも頻繁に通って、古木の活躍をこの目で直接見てきた。当時のベイスターズの2軍には、古木を筆頭に内川、小池、七野、田中一徳など華が有って将来楽しみな高校生出身選手が多かった。横浜から移籍してしまった多村選手、相川選手もこの頃はまだ20代前半で、1軍、2軍を行ったり来たりで、打線に厚みがあって、まさか将来ベイスターズがこんな事になるなんて思いもよらなかった。

 02年秋、外国人獲得の度重なる失敗で、貧打にあえいでいたベイスターズに彗星の如く古木は登場する。1ヶ月で9本塁打。10月の消化試合では4番も体験することになった。このオフ、松井秀喜がメジャーに移籍し、スポーツマスコミはこぞって古木を松井のあとを担うNPBのスターとして祭り上げた。03年初頭の正月のNHKの番組には、朝青龍や女子レスリングの浜口京子と共に日本のスポーツ界をリードしていくアスリートの代表として出演したりしていたから、映画でいう主役の華はあったのだろう。

 Furuki Furuki2

これはその頃の写真。その年の春のキャンプは直接見たが、前年度最下位に沈みなんとか人気を浮上させたいベイスターズは古木に白羽の矢を立て、必死で開幕からスタメンを張らせるためにチーム全体が古木を後押ししていた。思えば、この球団の方針がその後の古木の運命を狂わせることになったのだと思う。山下新監督にも課せられたのが古木と村田の育成と起用であった。だが、古木にはこの時まだ1軍のスタメンで活躍するには致命的な欠点があった。あまりにも守備が雑すぎたのだ。山下監督は「短所欠点を修正するより長所を伸ばす」方針であったが、開幕シリーズから古木は守備でのミスを連発。それでチームが負けても古木はスタメンで使われた。守備のミスがメンタル面にも及んだのか打撃の方もどんどん荒くなり、本塁打こそ20本以上を打てたものの打率、打点では期待を大きく裏切る結果になった。

 翌年のキャンプでもこの方針は変わらなかった。サード守備で村田に負けた古木は外野コンバートされるが、打球判断が悪くイージーフライを落球するようなプレーが目立った。それでも山下監督は我慢強く古木には期待したと思う。ところが、2年続けて最下位の責任をとらされる形で山下監督が退団し、投手出身の牛島監督が就任し、守備重視の方針から古木の出番は減った。スター扱いを受けていた古木はチームの方針転換と共に代打屋扱いに変わり、それでも何度か機会は与えられたと思うがその数少ない機会に古木はやはり守備でのミスを見せてしまい、スタメンからその姿を見る機会は大矢監督の時代にいたっても変わらなかった。

 人生は難しい。「短所を直すより長所を伸ばす」という山下監督の方針はある意味間違いではなかったが、世間の期待と古木の実力が余りにも乖離していた。古木のライバルとして入団した村田との違いは、実力でポジションを勝ち取った選手と、与えられたポジションで祭り上げられた選手の違いだ。それでも僕らは、春のキャンプに深夜近くまで打撃コーチと共にバットを振り続けていた古木の姿をみている。03年春、04年春の夜の室内練習場は古木のボールを叩くバットの音が毎夜鳴り響いていたのは確かだったのだ。彼は必要以上の期待をかけられ、そのプレッシャーにも負けずに練習をしていたのは確かだ。だが、守備への意識の低さがその後打撃にも影響しやがてポジションを失ってしまうことになるとは思いもよらなかったろう。

 その後、古木はオリックスバファローズへトレードされ殆ど1軍で活躍する姿を見せないまま、昨日プロ野球を引退し格闘家への挑戦を表明した。この古木の凋落ぶりは、この時代の横浜ベイスターズの凋落ぶりに当てはまる。チーム作りの初動段階での方針の甘さ。欠点を修正しなかったが為に欠点よって長所も呑み込まれてしまう。野球は個人プレーであると同時に生きた集合体でもあると思う。それは映画にも同じことが言えるかもしれない。古木は言わば「芝居の基本がダメでも、ルックスとアクションがいいから」といきなり主役に抜擢されてしまったアイドルみたいなものだったのかもしれない。最初はそれでもいい。しかし、厳しい競争に勝ち残っていくには、基礎を疎かにしてはいけない。余談になるが、黒川芽以や小出早織がNHKのドラマなどで頻繁に見られるようになってきたのは、彼女たちがアイドルから女優へと伸びていく過渡期を経験しつつある結果だ。彼女たちは基礎を疎かにはせず、舞い上がらず頑張っている。

 古木にとって失われた00年代を取り返すことが出来るかどうか、それはまだわからない。ただ、ひとつ言えるのは、育成段階での方針の失敗と本人の意識の低さから野球界は大型選手をひとり失ったということだけだ。トライアウトに2回挑戦し失敗し、そこで野球を捨てた古木。なぜもっと泥臭く野球にしがみつき、台湾、韓国、または独立リーグでも頑張ろうとしなかったのか?おそらく、実力を伴わないのにスター扱いされた故に生まれたプライドがそれを許さなかったのだろうか?可能性はまだ残る年齢だっただけに残念だ。

 「スマッシュ」という団体で格闘家へ転身してそこで確りやっていけるかどうか、しかし、一度逃げた人間には僕はもはやなんの興味もない。

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2009年12月 8日 (火)

脚本打ち合わせ

 昨日はようやく上がって来た脚本に関して午後から日暮れまでライターと打ち合わせ。渋谷のホテルのティールームはコーヒーのお代わりも出来るからちょっとした打ち合わせにはいいんだけど、業界関係者が結構多いのが難点。昨日もある俳優事務所のスタッフや、某劇団の座長と最近結婚した女優の組み合わせなど。僕の声は結構大きくて通るのだが、打ち合わせに熱中してしまうと小声で話すわけにもいかず、内容も内容だけに次ぎからは打ち合わせの場所を考えなくてはいけないかもしれない。脚本家が愛煙家であるので場所を選ぶのだけど。場所だけなら、自宅の近くにある奥さんの実家に学習塾をやっているスペースがあるのだけど、川崎だし、煙草は吸えないから多分無理だな。かつて高橋洋さんとは、浜田山のジョナサンで1週間毎にランチ食べてから夕食時間まで8時間話をしながら「発狂する唇」の構想を練っていたことがあったけど、ファミレスは子供を連れた若いお母さんたちが大挙してやってくると子供たちの叫ぶ声が煩くなるんだけど、あの頃は気にならなかった。いまは、ホテルのティールームが静かで以外にコーヒーのおかわりサービスもあるのでこういう場所を使うことが多くなった。10年くらい前までは新宿の「らんざん」が圧倒的に多かったけど、あそこも低予算映画やピンク映画のスタッフのスタッフルーム化していたので、後半は足が遠のいた。

 街中にフランチャイズのコーヒー店が多くなってきて、仕事で話が出来る喫茶店が少なくなってきた気がする。

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