« 2010年1月3日 - 2010年1月9日 | トップページ | 2010年1月17日 - 2010年1月23日 »

2010年1月10日 - 2010年1月16日

2010年1月14日 (木)

レッスンとか

 昨日は今年初めてのレッスンを成城で、辰巳さんと新年の挨拶。レッスンは順調。芝居の質を上げて行く。或プロジェクトが動き出したので、その側方支援を僕らなりにうまくできればと思う。いずれにしろその為にも鍛錬鍛錬ですね。

 レッスン後妻とイタリアンを食べて帰宅するも、その間に義父が腰の痛みで歩けなくなったと言う連絡が来たりして心配で帰りに自宅に寄ってみるが、痛みはおさまり歩けるようになっていて良かった。一応、今日病院へ連れて行く段取りをつけるが今朝連絡が来て痛みはないので病院へはいかずに様子をみるとのこと。高齢なので、一旦歩行困難になると中々もとに戻れないこともあるので、すぐに治って良かった。

|

2010年1月13日 (水)

訃報 エリック・ロメール

 六本木で打ち合わせに出かける直前にこの訃報を知る。

 いまはなき六本木のシネヴィヴァンで「緑の光線」を観て感銘を受けてなんだかんだで30年近くたってしまったわけですが、良くも悪くもその後の日本のインディーズ映画はロメールの影響下にあった作品を多く生み出しました。 予算がない青春映画はみんなロメールで克服しようぜみたいな。

 この時代の総括と言うか反省を、あの時代に若者でもう中年から初老になりつつある映画人はちゃんとやらなくちゃいけないんじゃないだろうか?

 たまたま今日食事しながら打ち合わせをした場所はあの劇場の立っていた場所であった。

| | コメント (0)

2010年1月12日 (火)

紅の流れ星

 スカパーで「紅の流れ星」を観る。昔、16ミリプリントを借りてきて札幌でj自主上映したときに観て以来だけど、何十本とある舛田利雄監督映画の中でも異彩を放つ自由度満載の映画。渡哲也のふらふらと浮遊感るキャラクターが秀逸。日活アクション映画って清順以外のものはあんまり再評価されていないし、実際に今見ると淡白でつまらない映画も多いんだけど、「紅の流れ星」はいいなあ。日活映画の何とも言えない、アンニュイな感じは、例えば長谷部安春の「流血の抗争」で、宍戸錠さんと藤竜也さんが殴り込みに行ったのに親分が不在で待っている間に思わず居眠りしてしまうジャンプカット多用の編集とか、やくざアクション映画なのにそこになんとなく青春映画っぽいニュアンスが入り込んできて、それは泥臭い東映映画には絶対にない部分で、まさにそれを自主映画で長崎俊一監督がやっていたんですが、大人になったらみんな真似しなくなりましたね。これも時代の気分だったんだろうか・・・。「紅の流れ星」では、キャバレーでの乱闘のあとで「ジェンカ」みたいな曲が流れてそのままふらふら渡哲也が踊りだし、そのままキャバレー全体でジェンカを躍ると言う、不思議なシーンがあるんですが、なぜかあのシーン、いま観ても、何か胸がキュンとする瞬間があるのですね。でもこう言う演出はこの後舛田利雄はあんまりやっていないんですよね。これ1本だけ。舛田利雄はこれと「艶歌」と言う五木寛之原作の映画が傑作だったと思います。それ以外だと「ノストラダムスの大予言」だとか、「人間革命」とかいまやソフト化困難な奇天烈な大作を経て東映で「二百三高地」のような戦争大作を撮ることになりますが・・・。

 「ケータイ刑事 THE MOVIE」で宍戸錠さんとお仕事させていただいた時に、いろいろ映画の話を聞いたが、映画のタイトルと共演した人の芝居はなんとなく覚えているけど、何百本もやったから1本1本もう覚えていない。と言うことでした。でも「殺しの烙印」については覚えていたのは、やはり主役で出たのとそうじゃない映画は違うんでしょうねえ。

 僕は長崎さんにもう一度、「ハッピーストリート裏」みたいな、ニューアクション映画を撮って欲しくて、ただ単にその情熱から「ヨコスカ魂」と言う脚本を書きつづけたことがあったけど、実現化しませんでした。Vシネ時代にそれこそ黒沢満さんが竹内力で何本かリメイクしていましたが、昔あったあの自由な情感は削ぎ落とされていました。予算がないから、こう言う部分はどんどん削ぎ落とされて行ったんだと思います。

|

2010年1月10日 (日)

映画の引きサイズ

 むかし、東映Vシネマを1本だけ撮らせていただいたことがあって、当時助監督序列に厳しい会社だったので、セントラルアーツでも助監督やっていたぼくが監督をするのは上に何人も先輩がいてゴボウ抜きになってしまうので、なんとなく密かに企画が進んだ。その時初めてライターとして組んだのが高橋洋さんだった。当時、東映だけはフィルム撮りに拘って、スタンダードサイズの16ミリフィリムで撮り、東映加工でちゃんと初号プリントまで焼いていた。これは劇場公開を前提としていない場合でも必ず初号は焼かなくてはいけなかった。同じ東映グループ企業の仕事を増やすと言うこともあったのかも知れないが、その実はエグゼクティブの黒沢満さんの指令だった。黒沢さんは映画はフィルムであることに拘り、尚且つ東映Vシネマがあくまでも映画の一形態であることを誇りにしていた。まだ24Pカメラがない時代だったせいもあるが、黒沢さんは撮影所最後の勇士でもあったのだ。その黒沢満さんが、多忙で調布の東映加工や大泉の試写室に来られない時の為に東映ビデオ本社には会議室でもプリントが観られるようにスクリーンと16ミリ映写機が常備されていた。僕の「GO CRAZY 銃弾を駆け抜けろ」もそこで黒沢さん試写が行われた。その時に見終わったあと、開口一番言われたのが「映画なんだからおまえ、もう少し引き絵を撮ってこい」だった。「GO CRAZY」は16ミリカメラで撮影され、低予算を逆に生かすために敢えて機材を最低限まで減らし、全編手持ちカメラで撮影された。なので三脚も現場にはなく、演出的にも情感を出すための実景や引きは一切撮らなかったので「引き絵」が少ない印象だったのは確かだろう。ただ、映画なんだから「引き絵」が必要だと言う現場の論理は、絶対的なものなのか未だに僕は懐疑的だ。黒沢満さんは、僕がこの業界に入って一番映画の話を確り出来るシネフィルなプロデューサーだったので、この時はなぜ自分が引き絵を撮らなかったのかきちんと意図を説明したら納得してくれたが、テレビは寄り、映画は引きと言う原則がかつての映画界では制度的なものとして捉えられていた。

 なんでこんなことを思い出したのかと言うと、昨日テレビで「夜汽車」と言う山下耕作の映画を観ていて、木村大作の作る画面があまりに引きすぎていてダイナミズムに欠けると感じたからだ。シーンは、萩原健一がやくざの父の丹波哲郎に金を借りに来る場面で、山下耕作はこのシーンを1シーン1カットで処理しているのだが、あまりにサイズが引きすぎていて芝居が遠いのだ。確かに丹波哲郎の大袈裟な芝居はそのサイズでも十分面白いし、丹波が去った跡にぶち切れる萩原健一を芝居を全てきっちりと捉えるとこう言うサイズになってしまうのだが、ここまで芝居を全てきっちりと収めてしまうところまで引くことが映画にとっていいことなのかどうか、ただ80年代以降日本映画はどうにも引き絵が多すぎる気がするのだ。

 僕は芝居を長回しで撮るにしてもベストなサイズは、小林節雄が増村の映画の中で切り取っていたようなサイズ、ある意味テレビ的とか言われてしまうような中途半端なサイズがベストだと思う。昨日の「夜汽車」は一枚の絵としてみると構図とか綺麗だが、例えばショーケンが芝居の後半で暴れる場面で画面の隅々までショーケンが暴れるであろうことを前提として引かなくてはいけないものなのだろうか?人物が顔半分画面から切れていても感情を確りと客に伝えることの方が重要なのではないかと思う。80年代以降、日本映画は引きのサイズが1サイズ広くなったように思う。監督が引き絵を生かした、芝居とセットの空間演出ができなくなったきたせいもあるかも知れない。むかしの山下耕作の映画を観ていると時々耐え難い長回しをすることがある。監督の意図は恐らく芝居を切りたくないと言うことなのだろうと思うが、その芝居を撮るカメラと役者の距離感はほんの数センチ単位で傑作にもなるし駄作にもなってしまうのだろう。その意味では東映京都の昔のカメラマンたちの一見凡庸に見えるサイズの方が映画的ではないかと最近思ったりもするが、これは映画館で見た記憶が強いから何とも言えない。

|

« 2010年1月3日 - 2010年1月9日 | トップページ | 2010年1月17日 - 2010年1月23日 »