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2011年3月 5日 (土)

伊丹万作 「故郷」

 京橋のフィルムセンターで伊丹万作の「故郷」を観た。今フィルムセンターでは、平成21年度特別補正予算の中から割り当てられたお金で昔の映画のネガ修復作業が行われており、その中から修復された映画を数十本単位で上映されている。これが名作というだけではなく、横溝正史の「本陣殺人事件」の初の映画化である「三本指の男」だとか娯楽映画も数多く混じっているのでお時間のある方は足を運ばれてみてはと思います。

 そんな中時間が最初に合ったのが伊丹万作の「故郷」だった。伊丹万作の映画は、故伊丹十三氏が「マルサの女」シリーズで得た莫大な資本を使って父親の映画の権利を何本か買い取り、ネガを修復し英字幕を打ち込んで保存したりし、海外へセールスしようとしていたのを知っている。その時、伊丹さんと一緒に試写室へ行って字幕打ち込みの為の試写の画面を8ミリビデオカメラで撮る仕事をやった記憶がある。その時に観たのは「赤西蠣太」。結局その計画はこの一本で頓挫したようだったが、伊丹氏の想いはこうして20数年後国の補正予算で達成されたことになる。

 で、その「故郷」ですが、これがなんとも面白い映画だった。物語的には都会に出て上流階級の人達と触れ合って近代的自我に目覚めた田舎娘が帰郷するとその価値観の違いに絶望するが、やがて邂逅するという簡単に書くとそういうものだが、その描き方がなんとも妙なのだ。冒頭はこの娘の実家の酒屋(田舎の萬屋みたいなもので、なんでも売っている)の店番をする弟に向かって、じっくりとトラックアップしていくという確りした構図の画から始まり、この弟が注文を受けて美しい山河を背景に自転車を走らせる場面を長い移動と、これは田舎道で撮るのは結構難しそうなのだが、走る車輪のアップや少年の顔などをモンタージュしながらハリウッド映画風の(当時の)軽快なストリングスの曲で実にこの村の素晴らしさを強調して始まる。そこで少年は姉が東京から帰ってくることを配達先の老婆から聞かされる。というオープニングなのだが、いざ実際物語が始まるとこの田舎の村が実は横暴な権力者によって支配されていて、少年や姉の家族はこの権力者にいかに苦しめられているかが語られ、更にこの権力者の息子を贔屓しなかったという理由で少年が慕う教師が学校をやめてしまう羽目になる。とにかく酷い村なのだ。ここへ帰ってきた娘はこの権力者のおかげで仕事もなく、ニート暮らしとなり、さりとて女学校へ通ったプライドから店を手伝うことを拒否。家族と対立して再び東京へ戻っていくことになる。

そして、普通ならここで東京で娘が都会で自分の身の程知らずを知らされて新しい自我に目覚めるというシーンを作ったり、或いは、田舎の権力者と戦うシーンを作って何かを乗り越えていく様が描かれるはずなのだが(アメリカ映画的な文法なら)それらはモンタージュであっさり省略され、雪の田舎の村へ娘が絶望して帰ってくる場面へ繋がれる。そして驚くことに、ここでは雪道のセットだけを作り、背景はスクリーンプロセスで姉と弟が二人で並んで姉が躊躇しながら帰宅する場面になる。二人は歩いているふりをして背景が流れていく極めて不安定な画面作りになる。オープニングの美しく確りとした構図とは真逆の不安定で重苦しい演出で、同じ映画とはとても思えない。田舎は変わらず彼女を迎えてはくれるが彼女が妥協しなくては生きては行けなくなるこの映画の先を考えてもハッピーエンドとは程遠い。筋立て自体は姉は家族と邂逅するが、問題は何も解決していない。脚本上はこのあと実は姉は帰ってきていないでのはないか?と、観客を煙に巻く演出が施されていて、この映画自体が実に大胆な方法で撮られていたことがわかる。「赤西蠣太」でも伊丹万作は通常の映画のセオリーを打ち壊して、映画の一番の見せ場を歌舞伎の場面にしつらえて大胆に省略してみせたが、映画が生誕して30年くらいの時代に既に構築と破壊は実験されていたわけで(ただの破壊ではなく映画の語りの冒険として)、これをみると今の時代に映画を破壊してみる行為など60年以上前に行われていたわけで、いくら映画で新しい表現など追い求めても、みんなやってしまっていることのように思えてならない。だからそれを踏まえて表面上の新しいことだけではなく、人の心をいかに動かすかという娯楽映画の基本に立ち返った地道な努力こそもう一度しなくちゃいけないと思うのでありました。

 というわけで新作の準備も始まりそうなので、いまのうちに映画をみまくろうと思っています。

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