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2011年5月

2011年5月26日 (木)

鈴木則文監督と撮影所映画の終焉に関して私が知っている二三の事柄

「ドカベン」がなぜ面白いのか? 「今のがどうして面白いかというと」というのは林家三平のギャグの一つだが、久々に「ドカベン」を観て、なんで鈴木則文が面白いのかというと。ということを書きたくなった。これは映画の作り方や観る作法にも関係してくるとおもうからだ。

映画「ドカベン」は意外にも、水島新司の原作に物語運びは忠実に作られている。だから映画の殆どは柔道部編で展開し、野球編は後半の10分程度のエピソードに強引にまとめられている。たぶん東映としてはシリーズ化を目論んだからだろう。で、これは鈴木則文監督を再評価される時によく出てくる言だが、漫画的表現を本当にしょぼい特撮でもなんでも使ってこれもまた忠実に再現している。忠実に再現しようという余りに「やりすぎ感」が出すぎて、かなりリアリティを欠いたものになっている。確かにそれはひとつの特徴と言える。

しかし、それでいて最近の劇画やアニメの映画化のように原作をなぞって再構築しているだけの「スターかくし芸大会」映画と違うのは、ひとつひとつのくだらないカットに物凄い手間暇をかけて撮っている点で、ここが同じ東映の他の監督とは違うところだと思う。

何が違うのかというと、徹底した撮影所のセットワークだ。例えば、岩鬼が四つん這いになってドカベンに気がつれないように、追いかける場面。追う岩鬼が土手の下を走り、土手の上をドカベンが走る。これを横位置の引きでワンカット処理している。まあ、これも漫画的な表現といえばそれまでなのだが、これをロケではなく土手のセットを造り込んで2人が上下を走る姿にまで引くには、セットとカメラの間にはかなりの「引きじり」が必要なわけで、このカットを撮るためにもかなり労力を割いていることになる。しかし、こうしたくだらないことに物凄い労力を使って映画をなんとか娯楽にしょうという涙ぐましい努力が鈴木則文映画からは垣間見える。

露悪的な傾向やスカトロイズムからカルト映画の監督としての再評価が高くなってきた鈴木監督だが、本来は70年代までは東映のお正月、ゴールデンウイーク、お盆興行を任させれるエース監督だった。真田広之の最初の主演映画「百地三太夫」~「吼えろ鉄拳」までその地位は揺るがなかった。しかし、「ザ・サムライ」を最後に東映で撮れなくなった理由はお体を壊したということもあるが、やはりこのくだらないことに全力を尽くす撮影所映画の王道のやり方が斜陽になってきた東映の中でも避けられたのだと思う。当時、日活撮影所出身の黒沢満さんが東映セントラルから東映本番線の常務、専務になられてかなり多くの作品を作られるようになった頃、東映の番組は日活出身の若い監督に登板が多くなっていった。ロマンポルノで鍛えられた若い監督たちは、ロケーション中心の撮影にも対応し、低予算でもそこそこに撮る力はあった。78年に「多羅尾伴内」を鈴木監督が撮り、併映が「最も危険な遊戯」だったが、これが逆転していった時代だ。

 東映は、80年代後半から8000万でVシネを撮り始めた。このころ、東映映画を好きな漫画原作者と呑んだことがあって、鈴木則文監督になんとか登板してもらえる企画は考えられないかという話をしたが、この方も何度か推薦したことはあるが、当時の東映から帰ってくる答えは「鈴木監督の映画は予算がかかり過ぎるから」という理由で断られてしまう。と語っていたのを覚えている。

 Vシネ全盛期に入った頃鈴木監督は体調も壊され脚本中心の仕事をしていたのだが、東映自体にかつてのエース監督を起用する余裕がなくなっていたのではないかと思う。僕も撮影所の雰囲気をちょっと知っているからわかるけど、一度この監督は予算がかかる。となると中々プログラムピクチュアでは撮れなくなった。もちろん、百戦錬磨の鈴木監督だから「そんなことは出来る」と言うだろうが、やはり鈴木監督を起用するならあのセットワークなしには持ち味は出せなかったのではないかとも思うし、「ザサムライ」の中でふんだんに本格的な殺陣、アクションをやりまくっていくやり方は金と時間がかかり過ぎたのだ。しかし、そのサービス精神に全力を尽くす姿勢こそ映画監督の王道だと僕は思うのだ。

 近年は「聖獣学園」の露悪趣味や、サブカル的に持ち上げられる「スケバン」ものなどで再評価されカルトとしての存在になってきた鈴木則文監督だが、映画ジャーナリズムはこのままカルトの中に鈴木則文を押しとどめてはいけない。確りとした技術と映画への思いを手を抜くことなく演出するその力、映画の王道を生きてきた監督として、加藤泰の流れを組む撮影所映画の最高峰として評価すべきなのだ。決して変な映画を撮る監督ではない。もちろん、そういった側面もあるが、「作家主義」として鈴木則文を語るなら、この人の撮る映画こそ日本映画なのだ。

そして一方、同時に鈴木則文が撮ってきた撮影所時代の王道の映画は既に終焉していることも知らなくてはいけない。

僕は映画を撮ったりドラマを撮ったりする人たちがシネフィルのように映画を追いかけて観る必要はまったくないと思うが、自分たちが生きている仕事の歴史は知っておいたほうがいいし、時折検証していく必要もあるのではないかと思う。

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2011年5月24日 (火)

スリー☆ポイント 山本政志

ここには撮りたいものだけを撮る。という山本政志の潔さがある。とりあえず2010年の夏の時点で撮りたいものをすべて撮ったから見てくれ!というライブ感溢れるインディーズ映画だ。

京都編は、山本政志節炸裂。「聖テロリズム」や「闇のカーニバル」にも繋がる「画を作らない」潔さ。この手法がいまも決して古びないことをわからせてくれる。京都に在住の実在のHIPHOPミュージシャンたちを主人公に、閉塞感の中で強烈に生きる若者たちの暴力的で不器用な青春をまるでドキュメンタリーのように活写する。こういう最低な奴らを生々しく撮らせたら山本政志は本当にうまい。焦り焦りする現在の閉塞状況への怒りをこれだけリアルに痛快に捉えた映画も珍しい。

沖縄編は、映画学校のドキュメンタリー科の先生が観たら激怒しそうな無目的行き当たりばったりな内容でこれもある意味痛快。沖縄の基地問題で闘う旧友を訪ねていっても結局それは吹っ飛ばし、ディープな街のプロの極道の刺青屋を撮りまくる。ここに出てくる米兵や不良中学生たちがたまらなく魅力的。何かひとつのテーマを掘り下げてそこへカメラを向けていくのではなく、自分が撮りたい!と思った原初的な欲求をすべて映画にしている点が面白い。そしてそこに捉えられた人々は「誰これ!?」という実に魅力的でおかしな人物たちだ。その危険で怪しい人々に山本政志が特に何か特別な思いもなく、同化して撮っているのがいい。これもまたエンタティメントの一つだと思う。

最後のエピソード、東京編は、打って変わって、都会を舞台に狂った男女間のサイコな要素もあるラブストーリー。これを確りとしたカメラワークで撮り上げている。村上淳の演じる暴力性と弱さを持った男が魅力的。渡辺大和も「見えないほど遠くの空に」続いて好演。今度は沖縄編と違って確りとした構成と練られた脚本で魅せる。もともとこれ1本で企画していた物語と監督本人に聞いたが、確かにエロティックサイコペンスの要素も加わって楽しめるジャンル映画だった。

この行き当たりばったりの「沖縄編」から確りと撮られた「東京編」までの振れ幅が大きくて自由で爽快感すらある。

内向的な自主映画が多い中、50過ぎのインディーズの草分け監督がここまで激しい新しい映画を撮ってみせたことに驚く。商業映画でやれないことをやるなら、ここまで自由闊達に表現して欲しいと思う。どんな若者が撮るより若々しい映画だった。

「スリー☆ポイント」は現在渋谷ユーロスペースでレイトショー公開中

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2011年5月22日 (日)

ブラックスワン ブルーバレンタイン 悪人

先週から観た映画をまとめて感想。

「ブラックスワン」は、繊細なバレエダンサーの感情を一人称で、サスペンスホラー風に味付けして映画化したものだった。一つのことに打ち込むと他のものが一切見えなくなり、挫折した狂信的な親に育てられたというシチュエーションは狂人星一徹に育てられ、繊細な野球怪物となった星飛雄馬に似ていた。妄想がそのまま具現化していく様も似ている。「巨人の星」で自分の腕が石化してヒビが入って崩れてしまったりとか。「ブラックスワン」の場合はそれがどんどん被害妄想のように襲ってくる。僕は途中まで、これは「ジェイコブズラダー」くらいの大妄想映画なんじゃないかと穿った見方をしたが、ラストは案外スポ根映画の定石を行って燃え尽きてくれた。映画は16ミリで撮影され、「レスラー」の時のように手持ちカメラでドキュメンタリー的演出がなされているが、これが中々落ち着かない。主人公の感情のブレにこちらも付き合っていくという意味では効果的な演出でもあったが、この物語的にはもっと確りとした画作りで臨んでもいいんじゃないかと思った。ナタリー・ポートマンは素晴らしかった。

 「ブルーバレンタイン」は、夫婦間のどうしようもない亀裂をやはりドキュメンタリータッチで、幸せだった時代と破綻のドキュメントが並行して描かれる。この夫婦間のそれぞれの考え方で賛否分かれているが、それはどうでもいい。観る方の立場や考え方でいろいろ変わるのは仕方ないし、映画の本質ではない。ただ、この映画には高度に演出的な手加減がされていて、そこが気に入った。それは主人公の男の行動の全てに「扉」というキーワードをあてて芝居に取り込んで映像化している面だ、主人公が木製の扉の隙間から女を見つけるおtころから二人の出会いは始まり、木製の扉を開けることで女と幸せな結婚に至る。ところが、並行して描かれる現在、どうしようもなくなった男が女を場末のラブホテルに連れて行く断絶を表現するセックスシーンに登場する扉は、二人の間に重く冷たい金属の扉となって現れ、二人の間を断絶する。また、女が働く病院に男が押しかけるシーンでは透明でありながらもどこまでも冷たい扉が二人の間を裂く。そしてラスト、扉を開けて入っていき、女に求婚した同じ扉を開けて男は出てくる。入るのではなく出てくることで二人の仲は完全に断絶した。漠然と歩いて行く男の先にあるのは昼でもなく夜でもない時間に遊んでいる花火の煙と僅かな光だ。開ける扉も明確にない中で主人公の先に救いが残されているかどうかわからないまま映画は終わる。このように、扉という装置を巧く使って脚本の人間関係を端的に表現させられた作家の勝利の映画だったと言える。じゃあ、好きな映画かと言われると「ブルーバレンタイン」はそんなに好きじゃない。これは好みの問題だけだが・・・。

 「悪人」 日本アカデミー賞を総ナメにしたこの映画は、脚本という点で大きな問題があると思った。一番は主人公の二人の存在があまりに矮小でどうでもいい理由で人殺しが行われてて、それはまあともかく、その後の逃亡以降の彼らに魅力が全然ないからだ。脇役の人たちの芝居は素晴らしい。笠松さんのカメラも凄いと思う。撮影現場的な達成度は高い映画だとは思うが、脇役の存在をもう少し削ってでも主人公ふたりの心理をもっと繊細に描くべきではなかったかなと思う。だから樹木希林さんや満島ひかりさんや光石研さんが良くて楽しむことは出来ても、肝心の男女の逃避行の場面になると風景、撮影の美しさのみが強調されて主人公達の行動が単調に描かれるので映画を観てて退屈してしまう。僕は原作を読んでいないからわからないけど、主人公の殺人の動機はこれでもいいから(これも「特捜最前線」みたいですが)、逃げてから先の物語をもっと描いて欲しかった。セックスシーンも含めてそこがあまりに単調で、「ブルーバレンタイン」のような矮小な出来事でもこれだけ繊細に描くと娯楽になり得るということを比べると残念な出来になっていたと思った。

 

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