マルコ・ベロッキオ 「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」
去年イタリア映画祭の目玉として上映された時は見逃していたマルコ・ベロッキオの新作をようやく観た。正直映画祭で映画を観るのが苦手だ。なぜかと言うと、話題作の場合チケット発売と同時に売り切れたりするし、売り切れる前に「ぴあ」なんかで事前予約すると馬鹿高い手数料をとられる。発券料も伴うから、下手すると1本の映画を観るのに2000円以上かかかってしまうこともある。だから映画祭で人気が出そうな映画はついついパスしてしまうことが多い。
さて、映画の話に戻します。「愛の勝利を」邦題のとおりに、イタリアの独裁政治家ムッソリーニの愛人イーダを主人公に、彼女の数奇な運命を、時に字幕と合成を多用したPOPなスタイルで、時に大胆な映像美と重厚な芝居を用いて描いたメロドラマです。映画は大きく分けると二つの構成になっていて、前半はムッソリーニとイーダの恋愛ドラマと、ムッソリーニが労働階級の社会主義者から独裁政治家へと目覚めていくところが描かれます。イーダとの激しいベッドシーンの中で突如「戦争!」という文字がムッソリーニの脳裏を駆け回り始めファシストへ目覚める。それをヒロインの全裸と共に描く様は、リアリズムと重厚な芝居とそしてまるでアニメのような字幕の出方も相まってとても不可思議な世界観を構築するのですが、そこに単なる歴史メロドラマではない、イタリア人のアイディンティティというかベロッキオの自己批評があって興味深かったです。
後半、イーダがムッソリーニの子供を身篭ってしまうところから映画は一転します。ムッソリーニはニュース映像の実在の姿のみの登場。これをムッソリーニとはもう直接会うことは出来なくなったイーダがニュース映画館で観るという構成になっていきます。
映画冒頭も演説するムッソリーニをイーダは群衆と共に見てるのですが、この映画がイーダのムッソリーニに対する視線の映画であることもわかります。その視線の先の愛する人が変貌を遂げ実像からやがてスクリーンに映る虚像へと変化していく。二人の間にはどうしようもない距離が生まれてる。光芒の中にスクリーンを凝視するイーダの視線がいいです。その表現も見事でした。
映画全体に言えるのですが、「映画の上映」が実に頻繁に出てきます。最も印象的だったのは、ムッソリーニが戦地で怪我をして病院に入院しているその場所で天井にキリストの受難の映像が流れている場面。これは映像のゴルゴダの丘の場面の得意な映像のせいもあって、何か異様な感じがします。
イーダとムッソリーニの間が決定的に決裂していくにつれてイーダが観ている映画も変化を遂げていきます。無声のニュース映像から無声時代のチャップリンの映像へ、最後はついに映画は音を発してトーキーになっていきます。映画を観るというシーンを散りばめていくことで時代の変貌とイーダの周りの人々の変貌も描き出すツールになっています。
さて、映画は前半の密室での濃厚なベッドシーンの濃密さから、後半は檻、雪、緑などを使った見事な映像叙事詩的な展開で物語のうねりを彩るように撮られています。これは本当に素晴らしかった。物語を信じ切った大人の表現とでもいうべきなのか。とにかく後半は主役のジョヴァンナ・メッツォジョルノの芝居を見ているだけで満足できるのに、そこに映画ならではの様々な工夫を凝らして努力しているのです。これもまたひとつのエンタティメントと言えるのではないかと思いました。
映画全体は重苦しい歴史劇のようなイメージを受けるかも知れませんが、近代イタリアを舞台にした恋愛歴史奇談としても楽しめるのではないかと思います。
とにかく熱い映画なのでぜひご覧になってほしい一本です。
僕はいまのところ今年度観た映画の暫定ベストワンであります。
| 固定リンク
最近のコメント