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2011年1月23日 - 2011年1月29日

2011年1月27日 (木)

訃報 池田敏春監督

 池田さんの訃報の第一報を聞いたのは新聞ソースに出る前、月曜の夕方だった。最後の映画を一緒にやっていたスタッフの方からの連絡だった。この一報の中で何が悲しかったというと自殺の場所が「人魚伝説」のロケ地であったと言うことだ。

 僕が上京してディレクターズカンパニーで働き始めた頃、丁度「人魚伝説」が仕上げだったのではないだろうか。この作品はディレクターズカンパニーの事実上の1作目であった。白都真理さんが見事な脱ぎっぷりだったが、これは池田さんがカラオケビデオの仕事で一緒になってそこで惚れ込んでということだったと思う。プロデューサーは根岸吉太郎監督と山本勉さん。事実上は勉さんがラインプロデューサーで、根岸さんは日活同期入社の池田さんをサポートする形で、実際に責任分担が何かあったプロデューサーというより自主制作で友人が撮るから現場を手伝いに行く感覚ではなかったろうか?現場からは移動車を敷いたり、助監督や制作部の手伝いを自らやって中々根岸さんは優秀だったという声が聞こえてきた。この映画は5000万くらいの予算だったのかなあ。ゴジさんからは二度と帰って来ない4千万をいきなり作ってしまったと嘆きの声を聞いた気がする。改めて制作ノートを読むと、その後伊丹プロで活躍したスタッフがメインで。ATGの映画でありながら実質は日活撮影所制作の映画に近かった。内容もアート系のATG映画というよりは日活ニューアクションの香りがまだ残るプログラムピクチュア的なアクション映画で、単館のしかも歌舞伎町シネマ1なんて映画でひっそり公開はされたが本来はもっと娯楽映画の路線として企画に載せるべき映画ではなかったかと思う。こうした映画と売り方の齟齬はその後もディレクターズカンパニーに常に付き纏うことになる。

 「人魚伝説」の公開の頃池田さんは既に「湯殿山麓呪い村」の撮影に入っていて、この時期が池田さんにとっては一番輝いていた時期だったのかもしれない。ただ「湯殿山麓呪い村」に関してはいつまでも撮影が終わらず、公開までの納品が危ぶまれていた。池田さんにとっては、「人魚伝説」の失敗があっても「湯殿山麓呪い村」が成功していればその後の映画人生も変わったのではないかと思われる。しかし「湯殿山麓呪い村」は内容的に微妙なものとなった。しかし、その評判をものともせず日活の正月映画「魔性の香り」を再び石井隆の脚本と天地真理の主演で撮った。「魔性の香り」はヒッチコックの「めまい」をベースにしたエロティックサスペンスのいわゆる日活エロス大作だった。多分製作費は3000万くらいだったんじゃないかな。とにかくディレカン発足時は一番映画を撮っている監督だった。池田さんのフィルモグラフィを一本一本追っていても仕方が無いので、ここで割愛するが、池田さんの嗜好はこの時点で大きくサスペンススリラーに傾いていた。90年代に入って乱発したエロVシネも殆どこの「魔性の香り」のリメイク的な路線だったと思う。大森一樹が脚本を書き、長崎俊一監督が撮った関西テレビ製作の「妖女の時代」も当初は池田さんの企画だったはずだ。

 ただ、「死霊の罠」「MISTY」を撮った頃から池田さんの現場での評判は頗る悪くなっていた。僕がディレカンで助監督や制作の仕事で電話すると各業者やスタッフは「池田組はお断り」の言葉が帰ってきた。特に美術装飾関係からは嫌われた。「寝ない汚い怒られる」が池田組の代名詞だった。どんなに赤字になっても嫌われない相米慎二とは対称的だった気がする。これは池田さんの撮った映画を観れば容易に想像がつく。夜のシーンが多くて、血糊の量が半端ない。仕掛けが多い。雨降らしが多くて現場はそれだけできつい。尚且つ監督は簡単にはオーケーを出さない。池田さんは撮影所で育った監督最後の世代の人だったから、撮影所が機能しなくなって全てのスタッフがフリーで構成される現場になるとこうした監督の甘えを許容する現場は少なくなっていたのだろうと思う。「MISTY」は40日間撮休一日もなしだっと聞く。が、残念ながら興行的にはどれもうまくいかず、批評家の評判の方もあまり高くなかった。

  「人魚伝説」がそうだったように池田さんの資質はあくまでプログラムピクチュアだった。ただ職人監督の我侭を許容できる時代ではなくなっていた。黒沢満さんや升水さんのような人が守ってくれても、現場対応は中々難しったと思う。石井輝男が東映東京撮影所で嫌われたのと同じようなものだったのかなとは思うが、撮影所があった時代とそうではなかった時代の狭間の中で処し方が難しかったのではないだろうか?思えば、ディレクターズカンパニーの作品そのものがそうであった。

 此頃娯楽映画の企画をディレカンのプロデューサーに持って行ってもいつも一蹴されていた。「文学の香りのする映画をやりたい」という言葉が帰ってきた。しかし、「私をスキーに連れてって」と「永遠の1/2」の2本立てが象徴していたように興行を考えないこの姿勢はやがて崩壊へ向かった。池田さんはそんな時代の真っ只中にいた監督だ。

 池田さんはVシネ時代に入ると量産しはじめた。これは日活撮影所時代の黒沢満さんやジャパンホームビデオの升水さんと言った人たちがビデオ会社の重役になって池田さんを積極起用していったからだ。だから90年代も池田さんは恵まれていた監督だと思う。

 「湯殿山麓呪い村」で成功して「妖女の時代」を降りなかったら池田さんの監督人生は少しは変わっていたのかと思うし、「人魚伝説」の力を娯楽映画で発揮すればディレカンの映画も変わっていたのではないかと思う。変わりゆく時代の中で80年代という映画にとっては大きな転換期に為す術もなかった。

 とかいろいろまだ書きたいことはあるが、個人的には池田さんの自殺は仕事が少なくなった監督の末路というよりは迎えるべきして迎えられてしまった結果であるような感情だ。鬱病は薬で治すか誤魔化すしかない。母親が鬱病での闘病期間が長かったのでよくわかるけど、この生きていてもきっと入院するか自殺するかしかなかったと思う。実の子供の僕ですら鬱病の人と一緒にいるのは辛いから、離婚とかそれもやむをえなかったとも思うし。

 ただ自殺にえらん場所が「人魚伝説」のロケ先であったというのが何よりも痛ましい。池田さんにとって一番光を感じていた時代が83年の夏で、そこにしか光がなかったのかと思うと、その頃のディレクターズカンパニーとその後のディレクターズカンパニーを知るものとしては涙を流さすにはいられない。悲しい思いと悔しい思いの両方だ。

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