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2012年12月31日 (月)

何と1年ぶりに更新 2012年を振り返る

 今年は今までにない仕事を2本こなした。まず、1月~6月までは初めて2時間サスペンスドラマを撮った。脚本作りでいろいろあったので、構成案から作りなおしたのが大変だったが、ベテラン俳優さんたちとの仕事は楽しかった。2時間サスペンス・ドラマには映画とはちょっと違うドラマツルギーがあって、視聴者の期待を裏切らないように楽しんでいただけるセオリーを探し、自分のモチベーションと擦り合わせることが出来たのは「砂の器」を再見したからであった。

 個人的には内藤剛志さんとの再会が何より嬉しかった。内藤さんの演じた中留と言う役は、現代芸術家という設定だったが、冒頭で死んだこの男の過去を徐々に暴いていくのがドラマの鍵であったので、いい加減な設定は与えられなかったし、内藤さんも随分悩んだようだった。僕は「もどり川心中」という神代辰巳監督の映画の中に出てくる萩原健一演じる狂気の俳人が参考になるのではないかと話し合ったりもした。参考にはしても、これは萩原健一ではなく、内藤さんなので、このドラマオリジナルのキャラを創りあげなくてはいけない。色々悩んで内藤さんとも何度も衣装合わせを行いキャラを創りあげていったが、内藤さんの最初の打ち合わせで髪を白くしようと提案してくれたのが大きかった。そのキャラから新たにロケハンもし直し、美打ちもやり直した。NHK他レギュラーの仕事もあるのに、内藤さんはこの狂気の人間を命懸けて演じてくれた。
一方で、内藤さんの奥さま役の大谷直子さんとも脚本から内容について摺り合わせ、内藤さんに負けないキャラ作りを行なってくれた。大谷さんの芝居はまるで「何がジェーンに起こったか?」のベティ・デイビスのようなキャラを作って現場に現れた。衣装も自分で用意され、ヘアメイクさんにはウイッグを要求し、いつもの大谷さんとはまるで違う、それでいて多面的なキャラを演じてくれた。テレビではちょっと厳しいかなと言う表現もいくつかあって、カットせざるを得なくなるほどであったが、本来ならトウマッチに僕が演出してしまうような役を最初から大谷さんが作ってきてくれたのは本当にびっくりした。しかし、芝居がうまいから本当にそれをリアリティを持って演じてくれるたのだ。
 主役の松平健さんはスターだったので、スター性を生かしつつ、コミカルな味を引き出そうとした。撮ってる時に思ったが、松平さんは天知茂がやっていたような屈折したハードボイルドの役が演じられるのではないか?そんな思いが過ぎったので、いつか松平健さん主演で「非情のライセンス」のリメイクなど撮ってみたいなと思った。初めて出会った女優さんでは野村真美さんが本当に芝居がうまかった。後半のドラマは彼女の演技力で作品に奥行きを持たせることが出来た。ドラマチックに揺れ動く女心を表現する台詞を、野村さんの口舌による台詞芸で泣かせるところにまで持って行ってくれた。これは演出家冥利に尽きる芝居であった。彼女とはまた仕事がしてみたい。
 鳥羽潤、石原あつ美と言う二人の若い実力派俳優たちとの仕事も楽しかった。鳥羽潤は、撮影初日がいきなり犯罪告白のクライマックスと言う難しい芝居だったが、見事に表現してくれた。石原あつ美も、彼を想う純粋な女の子をピュアに演じてくれた。石原あつ美の最後の台詞で重苦しいこのドラマは随分と救われたのではないだろうか。
 2時間ドラマには様々な制約があり、僕は敢えて映画的ということを頭から切り離し、2時間サスペンスドラマの王道を作りたかったし、それは成功したと思うのだが、まだまだやりきれなかったことが多いし、失敗したこともあるので、また挑戦してみたいジャンルではある。低予算とはいえ、それでも低予算映画の4,5倍近い予算で作ることが出来るので、若い人たちも制約を恐れず挑戦してみるといいのではないかと思う。
 もう一本は 日本映画大学で1年生の実習作の指導監督という振り幅の仕事だった。約3ヶ月かけて脚本作りから参加し、撮影、編集、ダビングまで。全く映画やドラマの現場を知らない学生たちを監督に、スタッフに、そして役者になって貰って、10分以内の16ミリキャメラによる短編映画を撮る。これが、引き受けたはいいが、想定以上に大変な仕事だった。16ミリキャメラはデジタルカメラと違って、確りとライティングをしないと何にも映らない。例えでいオープンでも光を考えた撮影をしないと暗くて何が写っているかわからなくなってしまう。僕自身は16ミリで映画を撮っていたわけだが、この久々に「映らないものから映るまでを作り上げていく」と言う仕事を、素人の、しかも自主映画すら作ったことのない生徒たちを指導して1本撮ると言うのはかなりしんどくて、眠れない日々が続いたが、それだけに久々に剥き出しの映画と関わったことで、多いな刺激になった。
 この仕事を通して思ったことは、1カットを撮ると言うことはそこに何らかの思想哲学がないと、見られないものが出来上がってしまうということをまざまざと再確認させられたこと。当たり前のことが当たり前ではなくなってしまう現場で、映画の現場に必要なのは「監督の哲学」であり、その為に判断していく力なのだと云うこと。学生たちに0から10まで指示しながら、最終的なアイディアと判断は学生に任せる。そこからどうやって映画が生まれていくのか、一番大事なものは原初的な欲望であるということを僕自身も認識させられた。
 ただ、この実習が終わって思ったことは、彼らが卒業するまでの4年間の間に少しでも映画界をまともにしていかなければいけないという強い思いだ。現在の大作と低予算の差があまりにもあり過ぎるこの状況で映画界で生きていくのは本当に大変なことだ。僕に出来るのは、彼らを指導監督することでもあるが、それよりも現実の映画を何とかしないといけない。
 そういった意味で、今年一番辛かったのは一瀬さんのオズが会社更生法の適用を申請したことであった。関西から単身東京へやってきて、映画会社やテレビ局に就職するのではなく、裸一貫インディペンデントのプロデューサーとして映画を作り続け、ハリウッドにまで進出し、日本では珍しいエンタティメント指向のプロデューサーとして輝いた一瀬さんは、ある意味「この人がいれば大丈夫」と思える存在だった。ディレカンに続いて僕にとって精神的な支柱だったプロダクションがなくなってしまったことは、かなり衝撃的だった。またいつか不敵に映画界に戻ってきて欲しいと思う。
 日本映画はまだまだ厳しい状況が続いている。しかし、先にも書いたが、何とか日本映画の娯楽映画がもう一度光を取り戻し、若手監督達が海外の映画祭を目指すのだけではなく、娯楽映画を撮って大ヒット作を作ることが「状況的には」簡単に出来るようにしなくてはいけないと思う。その意味で、メジャーの映画とインディーズの映画の溝を何とか埋めていく努力を我々はもっとしなくてはいけない。自分のためだけではなく、今年知り合った多くのベテランの職人たち、そして10代の映画を志す若者たち皆が映画の現場で幸せになれるように、その礎に少しでもなれればと思う。
 そういう思いを強くした年末の一日であった。
 
 絶望するのはもう飽きたよ。来年からまた踊りたいよ!

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