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2014年3月14日 (金)

キャリーの差異について

「キャリー」のリメイク版を見て思うところがたくさんあったので、1976年のデ・パルマ版もDVDで観直した。見始めてまず思ったのは、リメイク版が思った以上に76年版の脚本を忠実に踏襲してると言うことであり、デ・パルマが思った以上に前半から効率化を図った演出をしていることだった。

 まず冒頭。バレーボールで同級生からダメ扱いされるキャリーを俯瞰によるクレーンショットからそのままクレーンダウン→トラックアップしてキャリーの単独ショットまで1カット。この1カットでキャリーがどういう扱いを受けているかわかる。同時にこのカットでクレジットタイトルまで始まってしまう。2カット目はスローモーションによるキャメラ移動で、ロッカールームからシャワーまで1カットで進む。現在は無修正なので、女子学生役の子たちの全裸、陰毛をたっぷり鑑賞することになり、このカットからキャリーがシャワーを浴びているカットまで1カット、メインテーマの青春映画風のメロウな曲が流れる。曲はメロウだが演出はエロ。やがて、キャリーの裸の寄りがメインテーマにノッてイメージ映像のように映しだされ、この構成の中でキャリーの初潮まで持っていく。このタイトルバックが終わった途端、映像はイメージ的なものから一変させワイドレンズ多用の手持ちカメラで、キャリーの生理騒動を映しだすが、この時に自らの出血に恐怖し、同級生たちに迫るところから、シャワールームの一角に追い詰められ、悲惨な姿になるところまで、シシー・スペイセクの芝居はヒステリックでかなり気持ちが悪い。念動力による照明灯の破裂などはさりげないが、感情が高ぶっていくキャリーがあまりに激しいので怖い。

 と、冒頭のメインタイトル~クレジット、クレジット明けの一芝居まで余計な人物紹介など何もなく、一気に効率的に語られる。観客はこの冒頭で映画がちょっと気色悪い少女が主人公の映画なのだと感じるのだ。これがリメイク版では、バレーボールがプールでのバレーボールに置き換えられているのはさておき、説明的なカットで気の弱そうなドジで可愛い少女が主人公であると感じさせるところまで持っていく。次は同じようにロッカールームからシャワールームの展開なのだが、前段で説明しているのでここはキャリー役のクロエモレッツの素肌を可愛く見せる演出に奉仕からの、生理騒動になる。が、シーンごとにテーマが一つなので気持ちが揺さぶられることはなく安定して物語を見ていくことになる。

 こうした、1シーン、或いは1カットに2つ以上の情報を入れて物語を潤滑に語ると同時に映画を効率化し、更に見ている観客の気持ちを揺さぶる。と言う脚本だけでは成立しない、まさに演出の妙をデ・パルマは展開してみせる。次のシークエンスでもオリジナルが優れているカットがある。

 生理騒動が終わり、次のカットで学校内の廊下が映し出される。日常だ。この日常をキャメラはパンで捉えながら最後に校長室の前の小さな部屋で尋常ではない精神状態で待ってるキャリーが映しだされ、先の展開に興味が湧くことになる。

 続いて、そのキャリーを手前に置いて、奥の校長室で校長と女体育教師が話してるのがわかるのだが、この時女体育教師は煙草を吸ってるのだ。キャリーはそれが見えないが、客にはその次の展開を感じさせる。キャリーの味方であるはずの女教師が、煙草を吸って尚且つ扉の向こうから聞こえてくる小さな声で「キャリーも悪い・・・」みたいな声が聞こえてくる。

続いてキャリーが校長室に入り、キャリーは校長から早退の手続きを受けるのだが、校長から何度も名前を間違えられるという屈辱を受けながら目線は口紅のついた吸いかけの煙草に向けられ、感情の爆発は最高潮に達することになり、念動力が発動して灰皿を飛ばす。ここでわかるのは、この女教師ですらキャリーの味方ではなく、キャリーの疎外感が最高潮に達することだ。

そして観客は何を感じるかというと「キャリー」の念動力は感情が抑えきれなくなった時に発動し、コントロールが効かなくなる可能性がある「モンスター」だということだ。

冒頭のこのシークエンスだけで、76年のデ・パルマ版とリメイクされた「キャリー」が明らかに違う意図で演出された映画かということがわかる。リメイク版はこの間、デ・パルマ版の脚本を踏襲しながらも、視点が美少女への感情移入の導入と「キャリー」が実は可愛くていい子なのだと言う表現に持っていく。エピソードは一緒でも芝居の演じさせ方とキャメラ位置で映画のテーマが大きく変わるということがわかる。

芝居のアプローチということでは、更に次のシーンで大きな差異をリメイク版と76年版では見せることになる。それは、キャリーが帰宅し狂信的な母親に生理になったことを詰られ、一方キャリーが母親になぜ生理のことを教えてくれなかったのかと迫る場面だ。このシーンの間、母親は娘の話に決して耳を傾けることなく、聖書の一節を読み上げることを強要し娘の主張を頑なに無視をする。これは76年版もリメイク版も一緒なのだが、違うのがキャリーのリアクションである。シシー・スペイセクが終始ヒステリックに泣きながら迫るのに対して、クロエ・モレッツの芝居は母親を客観視する大人の視点で対応している。シシー・スペイセクが母親に洗脳途中の感情の昂ぶりを思い切り表現しているのに対して、クロエ・モレッツは既に母親の洗脳が解けた後の客観性を持った視線を母親に投げかけるのだ。

 シシー・スペイセクの「キャリー」は未だパイパー・ローリーの宗教的な束縛の中にあって、何とかそこから抜けだそうとはしているようだが、「自我」の確立には至っていなく、未だに母親の怨念から抜け出せない存在で有るということになってる。一方のクロエ・モレッツの「キャリー」は既に母親から精神的には独立し、母親に対して一人の女として対峙する。

 ここで76年版「キャリー」とリメイク版「キャリー」のキャリー・ホワイトのキャラクター設定が大きく変わっていることがわかる。つまり、76年版「キャリー」は先天的な超能力を持った少女が母親の狂信的な洗脳によってモンスター化しつつある存在であり、リメイク版は超能力を持った今はイジメられて地味な存在だが実は可愛い「人間」キャリーで有る点だ。怪物と人間を主人公にした差が2本の映画に決定的にある。

 こうしたキャラ設定の差が、以降全てのシーンに影響を与えていく。

細かいが、例えばトミー・ロスがキャリーの家にプロムナイトを誘いに行くシーン。二人の間にはアメリカ家独特の扉の中の網戸がある。カメラはトミー視点で網越しのキャリーを映し出し、人間とそうではないものの隔てを薄い網ごしに捉えることで成功している。この時点の「薄い網」と言うのが、いま人間かモンスターかと言う危ないキャリー・ホワイトの存在を実に的確に表現していると思った。

 一方、リメイク版ではなぜか、このエピソードは、トミーの本来の恋人スーの視点が多い。スーがキャリーをイジメてしまった罪滅ぼしに、恋人のトミーを誘わせているのだが(このスーの気持ちは76年版もリメイク版両方共によくわからない)スーのキャリーへの想いの比重が大きいように思えた。つまり、キャリー・ホワイトにも心を開くものがいるのだ。と、することによって、クロエ・モレッツのキャリーに観客の感情移入をさせようという意図が見て取れる。つまり、キャリー・ホワイトのヒーロー化だ。

 やがて、キャリーはトミーとの「プロム」への参加に一途になり始める。ここはほぼ同じなのだが、違うのは76年版のキャリーの演出が明らかに変わり始める。つまり、恋する気持ちに芽生えたモンスターが人間へと変貌していくシークエンスであり、リメイク版は可哀想な可愛い子がようやく内実共に可愛く着飾っていくシーンとして描かれていく。同じ脚本設定なのに、与えたキャラ設定と演出が違う。76年版の方が観客の心を動かす振幅が大きい。リメイク版は段取りである。

 これと平行して描かれる母親との葛藤。これも如実な差がある。勿論、VFX多用してるかしてないかの差もあるが、母親の描き方もかなり違う。76年版のパイパー・ローリーは狂信者だ。狂信の果てに狂った女になってる「人間」だが、リメイク版の母親役であるジュリアン・ムーアはキャリーより非人限度が高い。そうした怪物化してる母親を描くシーンまである。だから、キャリーは彼女から脱出しなくてはいけないと言う構図をわかりやすくしているのがリメイク版だ。ジュリアン・ムーアは熱演してて迫力があってキャリーリメイク版で一番好感持てる存在だったが、これもまたキャリー・ホワイトのヒーロー化に拍車をかける演出となったと思う。

 そして、クライマックスシーン。シーン構成の構造は全く同じ。76年版はスーが駆けつけ、キャリーを罠にかける仕掛けに気がついてから、舞台袖に向かって走り、その間に女教師に阻まれる間の、台詞のない視線の交わし合いとスロー演出が相まってデ・パルマのサスペンス演出は優れていた。キャリーが罠にかかって豚の血を浴びてから以降のシシー・スペイセクは完全に怪物化しており、「ドラキュラ」や「フランケンシュタイン」「ミイラ男」などに並ぶ存在になり得た素晴らしい表情芝居だった。ただ、デ・パルマ特有の分割映像はちょっと間抜けていて、全く効果を発揮していない。これは失敗だった。

 一方、リメイク版のクライマックス。同じように豚の血を浴びてもクロエ・モレッツは怪物化はしない。逆に虐げられた美少女の怒りの発露が、正義の鉄槌を下すために悪を掃討するスペクタクルとなって展開する。そういった意味で、意味不明な分割映像を使ったクライマックスの76年版よりクライマックスだけはリメイク版が見易く作られてる。悪を倒す爽快感もリメイク版が上だが、そもそも76年版は爽快感ではなく、遂に制御できなくなった怪物キャリー・ホワイトの恐怖を描いていると言う演出意図が全く違うので、観客の捉え方も変わるはずなのだ。

 というわけで、ラストのオチである。

 76年版はあの伝説の墓場のシーンだ。76年版においては、たったひとり生き残ったスーの悪夢の中での墓参りのシーンとして描かれる。この悪夢に入る前、母親が電話がかかってきてスーのそばから離れ電話にでるという構図の絵が「嫌な予感」をさせる。ここからホラー演出なのだ。やがてスーの夢の中になり、あの墓場から腕、のシーンになり、スーは悪夢から覚める。しかし、音楽は不気味に鳴り響いたままで、スーの心のなかに「悪魔」としてのキャリー・ホワイトが絶対的な恐怖として棲み着いてしまったことを示唆して映画は終わる。

 一方リメイク版でスーは、現実のキャリーの墓に墓参りに行く。墓に花を添えてもスーには何も起こらないが、スーが去ると墓にビシッとヒビが入って終わる。?????なシーンだ。デ・パルマ版のかなり間違った解釈だと言わざるをえない。デ・パルマ版のスーの悪夢は「映画はまだ終わってないもんね!」と言うその後何度もホラー映画で繰り返された「なんちゃって」ではない。スーの悪夢の中に悪魔のキャリー・ホワイトは実在しているのだという恐怖表現なのに、リメイク版では単なる「なんちゃって」オチにしている。

 

 クロエ・モレッツを使うことで、「キャリー」のヒロイック化を図りよりキャリーの存在を観客に好感を持たせようとする演出はわからないでもないが、それならクロエ・モレッツの新しいサイコキネシス映画を作ればよかったのではないか?取ってつけたようなオチを踏襲することで、何だか頭の悪いリメイク版に見えてしまうことになったのは残念だった。

 しかし、デ・パルマの演出は縦構図の1カットの中に同時に2つのことを進行させるというドン・シーゲルみたいな効率化された語り口を結構用いてたが、この原型は50年代のB級アクション映画やフィルムノアールの特徴でも有り、更にそれが戦前の無声映画的な演出への憧憬であったと思うし、76年の頃まではそうした伝統が確かに息づいていたのに、現在は物語が1シーンで常に収まってしまう段取化された語り口が目立つのはこれは今年に入ってドン・シーゲルを見続けて思ったことだが映画表現の衰退と言わざるを得ないと感じてしまった。CGによる何でも見せられてしまう映像表現は、次のシーンにまで観客の心を誘っていく演出技術を衰退させているのではないか? 

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