2014年3月14日 (金)

キャリーの差異について

「キャリー」のリメイク版を見て思うところがたくさんあったので、1976年のデ・パルマ版もDVDで観直した。見始めてまず思ったのは、リメイク版が思った以上に76年版の脚本を忠実に踏襲してると言うことであり、デ・パルマが思った以上に前半から効率化を図った演出をしていることだった。

 まず冒頭。バレーボールで同級生からダメ扱いされるキャリーを俯瞰によるクレーンショットからそのままクレーンダウン→トラックアップしてキャリーの単独ショットまで1カット。この1カットでキャリーがどういう扱いを受けているかわかる。同時にこのカットでクレジットタイトルまで始まってしまう。2カット目はスローモーションによるキャメラ移動で、ロッカールームからシャワーまで1カットで進む。現在は無修正なので、女子学生役の子たちの全裸、陰毛をたっぷり鑑賞することになり、このカットからキャリーがシャワーを浴びているカットまで1カット、メインテーマの青春映画風のメロウな曲が流れる。曲はメロウだが演出はエロ。やがて、キャリーの裸の寄りがメインテーマにノッてイメージ映像のように映しだされ、この構成の中でキャリーの初潮まで持っていく。このタイトルバックが終わった途端、映像はイメージ的なものから一変させワイドレンズ多用の手持ちカメラで、キャリーの生理騒動を映しだすが、この時に自らの出血に恐怖し、同級生たちに迫るところから、シャワールームの一角に追い詰められ、悲惨な姿になるところまで、シシー・スペイセクの芝居はヒステリックでかなり気持ちが悪い。念動力による照明灯の破裂などはさりげないが、感情が高ぶっていくキャリーがあまりに激しいので怖い。

 と、冒頭のメインタイトル~クレジット、クレジット明けの一芝居まで余計な人物紹介など何もなく、一気に効率的に語られる。観客はこの冒頭で映画がちょっと気色悪い少女が主人公の映画なのだと感じるのだ。これがリメイク版では、バレーボールがプールでのバレーボールに置き換えられているのはさておき、説明的なカットで気の弱そうなドジで可愛い少女が主人公であると感じさせるところまで持っていく。次は同じようにロッカールームからシャワールームの展開なのだが、前段で説明しているのでここはキャリー役のクロエモレッツの素肌を可愛く見せる演出に奉仕からの、生理騒動になる。が、シーンごとにテーマが一つなので気持ちが揺さぶられることはなく安定して物語を見ていくことになる。

 こうした、1シーン、或いは1カットに2つ以上の情報を入れて物語を潤滑に語ると同時に映画を効率化し、更に見ている観客の気持ちを揺さぶる。と言う脚本だけでは成立しない、まさに演出の妙をデ・パルマは展開してみせる。次のシークエンスでもオリジナルが優れているカットがある。

 生理騒動が終わり、次のカットで学校内の廊下が映し出される。日常だ。この日常をキャメラはパンで捉えながら最後に校長室の前の小さな部屋で尋常ではない精神状態で待ってるキャリーが映しだされ、先の展開に興味が湧くことになる。

 続いて、そのキャリーを手前に置いて、奥の校長室で校長と女体育教師が話してるのがわかるのだが、この時女体育教師は煙草を吸ってるのだ。キャリーはそれが見えないが、客にはその次の展開を感じさせる。キャリーの味方であるはずの女教師が、煙草を吸って尚且つ扉の向こうから聞こえてくる小さな声で「キャリーも悪い・・・」みたいな声が聞こえてくる。

続いてキャリーが校長室に入り、キャリーは校長から早退の手続きを受けるのだが、校長から何度も名前を間違えられるという屈辱を受けながら目線は口紅のついた吸いかけの煙草に向けられ、感情の爆発は最高潮に達することになり、念動力が発動して灰皿を飛ばす。ここでわかるのは、この女教師ですらキャリーの味方ではなく、キャリーの疎外感が最高潮に達することだ。

そして観客は何を感じるかというと「キャリー」の念動力は感情が抑えきれなくなった時に発動し、コントロールが効かなくなる可能性がある「モンスター」だということだ。

冒頭のこのシークエンスだけで、76年のデ・パルマ版とリメイクされた「キャリー」が明らかに違う意図で演出された映画かということがわかる。リメイク版はこの間、デ・パルマ版の脚本を踏襲しながらも、視点が美少女への感情移入の導入と「キャリー」が実は可愛くていい子なのだと言う表現に持っていく。エピソードは一緒でも芝居の演じさせ方とキャメラ位置で映画のテーマが大きく変わるということがわかる。

芝居のアプローチということでは、更に次のシーンで大きな差異をリメイク版と76年版では見せることになる。それは、キャリーが帰宅し狂信的な母親に生理になったことを詰られ、一方キャリーが母親になぜ生理のことを教えてくれなかったのかと迫る場面だ。このシーンの間、母親は娘の話に決して耳を傾けることなく、聖書の一節を読み上げることを強要し娘の主張を頑なに無視をする。これは76年版もリメイク版も一緒なのだが、違うのがキャリーのリアクションである。シシー・スペイセクが終始ヒステリックに泣きながら迫るのに対して、クロエ・モレッツの芝居は母親を客観視する大人の視点で対応している。シシー・スペイセクが母親に洗脳途中の感情の昂ぶりを思い切り表現しているのに対して、クロエ・モレッツは既に母親の洗脳が解けた後の客観性を持った視線を母親に投げかけるのだ。

 シシー・スペイセクの「キャリー」は未だパイパー・ローリーの宗教的な束縛の中にあって、何とかそこから抜けだそうとはしているようだが、「自我」の確立には至っていなく、未だに母親の怨念から抜け出せない存在で有るということになってる。一方のクロエ・モレッツの「キャリー」は既に母親から精神的には独立し、母親に対して一人の女として対峙する。

 ここで76年版「キャリー」とリメイク版「キャリー」のキャリー・ホワイトのキャラクター設定が大きく変わっていることがわかる。つまり、76年版「キャリー」は先天的な超能力を持った少女が母親の狂信的な洗脳によってモンスター化しつつある存在であり、リメイク版は超能力を持った今はイジメられて地味な存在だが実は可愛い「人間」キャリーで有る点だ。怪物と人間を主人公にした差が2本の映画に決定的にある。

 こうしたキャラ設定の差が、以降全てのシーンに影響を与えていく。

細かいが、例えばトミー・ロスがキャリーの家にプロムナイトを誘いに行くシーン。二人の間にはアメリカ家独特の扉の中の網戸がある。カメラはトミー視点で網越しのキャリーを映し出し、人間とそうではないものの隔てを薄い網ごしに捉えることで成功している。この時点の「薄い網」と言うのが、いま人間かモンスターかと言う危ないキャリー・ホワイトの存在を実に的確に表現していると思った。

 一方、リメイク版ではなぜか、このエピソードは、トミーの本来の恋人スーの視点が多い。スーがキャリーをイジメてしまった罪滅ぼしに、恋人のトミーを誘わせているのだが(このスーの気持ちは76年版もリメイク版両方共によくわからない)スーのキャリーへの想いの比重が大きいように思えた。つまり、キャリー・ホワイトにも心を開くものがいるのだ。と、することによって、クロエ・モレッツのキャリーに観客の感情移入をさせようという意図が見て取れる。つまり、キャリー・ホワイトのヒーロー化だ。

 やがて、キャリーはトミーとの「プロム」への参加に一途になり始める。ここはほぼ同じなのだが、違うのは76年版のキャリーの演出が明らかに変わり始める。つまり、恋する気持ちに芽生えたモンスターが人間へと変貌していくシークエンスであり、リメイク版は可哀想な可愛い子がようやく内実共に可愛く着飾っていくシーンとして描かれていく。同じ脚本設定なのに、与えたキャラ設定と演出が違う。76年版の方が観客の心を動かす振幅が大きい。リメイク版は段取りである。

 これと平行して描かれる母親との葛藤。これも如実な差がある。勿論、VFX多用してるかしてないかの差もあるが、母親の描き方もかなり違う。76年版のパイパー・ローリーは狂信者だ。狂信の果てに狂った女になってる「人間」だが、リメイク版の母親役であるジュリアン・ムーアはキャリーより非人限度が高い。そうした怪物化してる母親を描くシーンまである。だから、キャリーは彼女から脱出しなくてはいけないと言う構図をわかりやすくしているのがリメイク版だ。ジュリアン・ムーアは熱演してて迫力があってキャリーリメイク版で一番好感持てる存在だったが、これもまたキャリー・ホワイトのヒーロー化に拍車をかける演出となったと思う。

 そして、クライマックスシーン。シーン構成の構造は全く同じ。76年版はスーが駆けつけ、キャリーを罠にかける仕掛けに気がついてから、舞台袖に向かって走り、その間に女教師に阻まれる間の、台詞のない視線の交わし合いとスロー演出が相まってデ・パルマのサスペンス演出は優れていた。キャリーが罠にかかって豚の血を浴びてから以降のシシー・スペイセクは完全に怪物化しており、「ドラキュラ」や「フランケンシュタイン」「ミイラ男」などに並ぶ存在になり得た素晴らしい表情芝居だった。ただ、デ・パルマ特有の分割映像はちょっと間抜けていて、全く効果を発揮していない。これは失敗だった。

 一方、リメイク版のクライマックス。同じように豚の血を浴びてもクロエ・モレッツは怪物化はしない。逆に虐げられた美少女の怒りの発露が、正義の鉄槌を下すために悪を掃討するスペクタクルとなって展開する。そういった意味で、意味不明な分割映像を使ったクライマックスの76年版よりクライマックスだけはリメイク版が見易く作られてる。悪を倒す爽快感もリメイク版が上だが、そもそも76年版は爽快感ではなく、遂に制御できなくなった怪物キャリー・ホワイトの恐怖を描いていると言う演出意図が全く違うので、観客の捉え方も変わるはずなのだ。

 というわけで、ラストのオチである。

 76年版はあの伝説の墓場のシーンだ。76年版においては、たったひとり生き残ったスーの悪夢の中での墓参りのシーンとして描かれる。この悪夢に入る前、母親が電話がかかってきてスーのそばから離れ電話にでるという構図の絵が「嫌な予感」をさせる。ここからホラー演出なのだ。やがてスーの夢の中になり、あの墓場から腕、のシーンになり、スーは悪夢から覚める。しかし、音楽は不気味に鳴り響いたままで、スーの心のなかに「悪魔」としてのキャリー・ホワイトが絶対的な恐怖として棲み着いてしまったことを示唆して映画は終わる。

 一方リメイク版でスーは、現実のキャリーの墓に墓参りに行く。墓に花を添えてもスーには何も起こらないが、スーが去ると墓にビシッとヒビが入って終わる。?????なシーンだ。デ・パルマ版のかなり間違った解釈だと言わざるをえない。デ・パルマ版のスーの悪夢は「映画はまだ終わってないもんね!」と言うその後何度もホラー映画で繰り返された「なんちゃって」ではない。スーの悪夢の中に悪魔のキャリー・ホワイトは実在しているのだという恐怖表現なのに、リメイク版では単なる「なんちゃって」オチにしている。

 

 クロエ・モレッツを使うことで、「キャリー」のヒロイック化を図りよりキャリーの存在を観客に好感を持たせようとする演出はわからないでもないが、それならクロエ・モレッツの新しいサイコキネシス映画を作ればよかったのではないか?取ってつけたようなオチを踏襲することで、何だか頭の悪いリメイク版に見えてしまうことになったのは残念だった。

 しかし、デ・パルマの演出は縦構図の1カットの中に同時に2つのことを進行させるというドン・シーゲルみたいな効率化された語り口を結構用いてたが、この原型は50年代のB級アクション映画やフィルムノアールの特徴でも有り、更にそれが戦前の無声映画的な演出への憧憬であったと思うし、76年の頃まではそうした伝統が確かに息づいていたのに、現在は物語が1シーンで常に収まってしまう段取化された語り口が目立つのはこれは今年に入ってドン・シーゲルを見続けて思ったことだが映画表現の衰退と言わざるを得ないと感じてしまった。CGによる何でも見せられてしまう映像表現は、次のシーンにまで観客の心を誘っていく演出技術を衰退させているのではないか? 

| | トラックバック (0)

2009年9月11日 (金)

3時10分 決断の時 と西部劇の行方

昨日は朝から川崎で「310分決断の時」を見てから、恵比寿まで妻を迎えにいって一緒にランチをとる。恵比寿の「ロジェ」と言う30年以上ここで店を張っているぱすた屋さん。妻が若い時に通っていたダンススタジオの近くにあったので、いつもそこに通っていたところだが、内装等全く変わらず70年代によくあったログハウス風のデザインが懐かしい。パスタも種類豊富で美味しかったが、メニューが昔のスパゲティ屋さん風で、最近は本格的なトラットリア風の店が多い中で、昭和風のスパゲティは懐かしかった。ただ、僕らは丁度良い量だったが、若い人は+150円で大盛りにしたほうがいいかもしれない。帰宅してからは、映画秘宝の原稿書き。山城さんの追悼文なんですが、書きたいことが溢れてきて、指定文字数では書ききれないことになり中断。改めて構想を練り直すことに。

 さて、「310分 決断の時」ですが、西部劇なんかいまどきあっとういまに興行を終えてしまうかなと思っていたけど、川崎の109シネマズでは上映回数を増やしたりしていたので、これはやはりクリスチャン・ベールとラッセル・クロウの人気なのか、映画の出来が本当にいいから口コミで伸びたのか、いずれにしろ本当に内容がいい映画が微妙であっても上映回数増えたりするのはいいことだ。

 映画のほうは、アメリカの西部劇と言うジャンルが一つの進化を遂げつつある映画なんじゃないかと言う興奮を覚える出来だった。そもそも50年以上前に遡っても、西部劇と人くくりに出来るほど簡単なジャンルではないほどの豊かな作品群をアメリカ映画は擁していた。そしてそれは一つ一つがジャンルとして扱われてもおかしくないくらいに充実していた。ジョン・フォードの開拓魂溢れる西部劇。アンソニー・マンやニコラレス・レイたちによって作られた暗黒極まる西部劇。「ララミーから来た男」なんてのを大人になって初めて見た時は、西部劇でこんなに人の気持ちを暗くしてしまう映画があってもよいのだろうかと思うくらいに暗かったし、バッド・ベチカーの西部劇も低予算ながらいつも興奮させられる作劇法で楽しませてくれた。あのダグラス・サークが「アパッチの怒り」と言う唯一西部劇を語るときも撮影は大変だったけどジョン・フォードに出来ないことをオレはやったぜ、みたいなことを言ってるからやはり魅力あるジャンルだったのだろう。

 その西部劇の歴史が大きく変わるのは、イタリアでマカロニウエスタンが生まれてからだろう。昔の映画の評論家はマカロニウエスタンを軽んじる人は多いけれど、セルジオ・レオーネやセルジオ・コルッブッチがその後の西部劇と言うジャンルに与えた影響は計り知れなく大きかったと思う。アクション中心の映画に思われがちだが、マカロニウエスタンが大きく変えたのは西部劇出てくる登場人物のキャラクター像だろう。こう書くと、そこで黒沢明の話を持ち込む人がいるが、それは実はそんなに強くは影響していないと思う。むしろ、どこかラテンな、明るくていい加減で、それでいてどこか虚無的な人間像。イタリア映画ならではの人間像が新しいジャンルを生み出したと言える。

 そして、次に西部劇が大きな変化を迎えるのがイーストウッドが「許されざる者」を撮ってしまってからだろう。アメリカ映画とマカロニウエスタンを体現してきた男が、ジャンルとしての西部劇を終焉させるかのように撮ったあの映画。「許されざる者」が生まれて以降、西部劇と言うジャンルに挑戦すらしていけないのではないかと言う不可侵な領域になるとも思えていた。

 だが「310分 決断の時」は「許されざる者」以降に生まれた西部劇としては、類稀なる傑作として登場してきた。内容は難しいものではない。金銭的に追い詰められた元北軍兵の牧場主が己の生活と誇りを賭けて、強盗団のボスを鉄道が通る町まで護送するという物語だ。ただ、そこにはアメリカの西部劇が描いてきた「男の、父親の誇り」を大事にする人間像がきめ細かく描かれ、マカロニウエスタン風の楽曲とともにアクションも派手に描かれ、西部劇の映画的記憶を踏まえた作品造りが成されていた。この脚本、演出を見事に生かしたキャメロン・クロウ、クリスチャン・ベールの2人の俳優の演技が素晴らしい。表情のあり方が特に素晴らしかった。

このように伝統的なジャンル映画をいまだに生み出せるアメリカ映画が羨ましい。日本の時代劇でもあくまで本格的に予算をかけて、アクションもあり人間ドラマも濃いような映画は出来ないものか?そういえば「十三人の刺客」を三池さんでリメイクすると聞いたが、三池さんはテレビの「さぶ」のように確りとした演出で時代劇を撮ることが出来る実力のある監督なので、過激な方向はアクションだけにして確りと地に足の着いた時代劇を作って欲しいと願います。

 

|

2009年8月20日 (木)

久々に新宿で映画を観る

今やっている企画の参考にと「コネクテッド」を観に新宿まで出向く。新宿武蔵野館と名乗っているが、ここは数年前まで「シネマカリテ」だったところだな。7階にあった新宿武蔵野館は6年前に閉館して、ミニシアターの「シネマカリテ」だった場所が、「武蔵野館」を名乗っている。昔は新宿武蔵野館は東口では一番見やすくて大きな東宝洋画系の劇場で、高円寺に住んでいた頃は、武蔵野チェーンの小野さんから戴く招待券でしょっちゅう映画を観に行っていた。想い出に残る映画はフィリップ・カウフマンの「ライトスタッフ」かな。丸の内線の駅を降りて一番近い映画館だったので、ここと新宿ローヤルはかなり通った記憶がある。現在の新宿武蔵野館は、川崎のシネコンに慣れてしまったいま、あまりに劇場も画面も小さくてびっくりしたけど、「カリテ」だった時代は、ミニシアターブームのど真ん中だったからこれで良かったんだろうな。

  そういえば、ミニシアターブームの直前の80年代には随分と評判の悪いただ単に小さな映画館が多く出来た。一番酷かったのは、「新宿東映パラス3」だ。これはもう、畳一枚くらいの大きさのスクリーンで、しかも入ってすぐに柱かなんかがあって非常に観づらい映画館だった。むかし、新宿東映に勤めている友人がいて、かつて「ラストエンペラー」をムーブオーバーで上映した際に「こんな画面では嫌だ、金を貸してくれ」といわれて閉口したことがあったそうだ。僕はここでインド映画の「DDLJ」を観た記憶がある。

 さて「コネクテッド」であるが、「セルラー」と言うハリウッド映画を香港でリメイクされたものだが、ハリウッド版に比べてすべての表現が濃くなっているところがとてもアジア的で良かった。ベニー・チャンの演出は「香港国際警察」の時にも思ったけど、人間の焦りとか怒りとかそう言う原初的な感情を激しいアクションと結びつけてうまく表出させることころが、香港映画界の中でも異彩を放っていると思う。ただ単に見世物としてのアクションではなく、観ている感情にキリキリ迫る緊張感を終始伴ったアクションと言うべきか・・・。ハリウッドスリラーを単なるホンコン的パクリではなく、確りとアジア風味で味付けした一級の娯楽作品に仕上がっていた。ただ、気になるのは香港の俳優が時々アメリカ人風の仕草をするのは、「男たちの挽歌」の頃から変わらないが、そうするとそこだけB級風味になってしまうのは勿体無い。その意味でも悪役を演じた中国人俳優のリウ・イエの本気度の芝居は良かった。

 ところで、映画が始まる前の広告で久しぶりに「焼肉の長春館」のCMを観たけど、25年前と全く同じCMをニュープリントで上映しているのに感動してしまった。その昔は新宿の映画館ではどこでも流れていたCMだったが、いまだに存在しているとは思わなかった。あそこに映っている老人の客とかもう確実に死んでいるだろうな。歌舞伎町では「スーパーエニイ」、「オスローバッティングセンター」と言ったローカルCMが流れていたが、劇場で段々CMが増えてもういい加減にしろよ、と思うことが多くなっていく中で、不思議とああいったちょっとダサイローカルCMは何度見ても許せたのを思い出す。

|

2008年10月20日 (月)

キム・ギヨン3連発

 朝から夜まで東京国際映画祭で上映されるキム・ギヨン監督特集を観に六本木へ。映画は「下女」と「水女」と「火女82」の3本。「下女」は今から12年ほど前に高橋洋さんに誘われて観て以来。「発狂する唇」を撮るきっかけにもなった映画です。「下女」は12年前からさらに修復されていると言うことだったが、さすがに長い年月観ていなかったのでどこが修復されているのかはわからなかったが、再見して、もう鳥肌立つ迫力ある演出に脳内ノックアウト。続く「水女」は児童国際なんたら用の映画のようだが、途中までの醜悪なメロドラマと突如始まる児童憲章の大合唱でなぜか映画的感動を誘う奇跡の演出。この「水女」の何とも言えない貧乏臭いセンチメンタリズムこそアジアンドメスティック映画の醍醐味。ローカル映画でないと味わえない、アジアの田舎の食堂で味の濃い料理を食べさせられている感じ。「火女82」は「下女」の2回目のリメイク。「下女」がどこかアメリカ映画50年代の格調ある演出を感じさせるのに対して「火女」の方は、ほぼ同じ脚本ながらどこか70年代日本映画の青春映画の趣があって、つまり何と言うかロマンポルノのような緩い雰囲気があるのが面白かった。どれここれも傑作揃いで、キム・ギヨン特集は今週いっぱい続くので興味ある方は是非参加すべし。

 実は3本の上映のそれぞれの間が2時間づつあって、持て余す時間をどう過ごそうかと考えていたら、会場に柳下毅一郎さんと篠崎誠君がいて、3人で食事をしたりコーヒーを飲んだりしながら上映時間ぎりぎりまで延々と映画談議に花を咲かせたので、映画も含めて実に有意義な1日となった。帰り際には青山真治にも会ったけど、彼に残した言葉は、今日1日キム・ギヨンを見ての僕の心の底からの真実の言葉だった。

http://www.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=127

| | コメント (0)

2008年9月30日 (火)

女子大生会計士の事件簿 7話 本編集

女子大生会計士の事件簿  DX.5 とびっきり推理なバースデー (角川文庫 や 37-5) Book 女子大生会計士の事件簿 DX.5 とびっきり推理なバースデー (角川文庫 や 37-5)

著者:山田 真哉
販売元:角川グループパブリッシング
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 

午後から新井薬師のトムスエンタティメントで「女子大生会計士の事件簿」第7話の本編集。既に、5,6話は完成しているのでフォーマットは出来上がっておりこの間よりもスムーズに繋げた。まあ7話目は、「ケータイ刑事」で言う企画ものと言うか銭形舞「チーフ脚本家殺人事件」や銭形零「連続監督殺人事件」のようなものなのですが、さらにそれを超えて現実とドラマが一緒になってしまうと言うまさに「テレビは冒険だ!」を実践する回になっております。僕の中ではウルトラセブン「第4惑星の悪夢」とかロバート・バリッシュの『決死圏SOS宇宙船』を、角川書店本社内だけで撮ってしまったと言うようなものにしたかったのですが、どうなっているでしょう。まあ、そこまで崇高なものは無理かもしれませんが、この回は角川アニメに馴染みある声優さんも出演していたり、突然萌ちゃんが雷になってしまったりいろいろ遊んでいます。

 「女子大生会計士の事件簿」では、5話は宝積さんを起用してクイーンとはまた違った、強くて悪い女を演じて貰いました。以前にも書きましたが、クライマックスの2人の対決を長回しで撮ったシーンが印象的ですが、実はこの回はカッキーこと竹財君がメインのストーリーで、カッキーが単に萌美の相棒ではなく、彼の心情とか過去にも突っ込んでみた回で三宅君の脚本が冴えています。6話は、本来僕がこのシリーズで一番やりたかった経済サスペンスを、森本亮治君をゲストに迎えて描きました。萌美には「マルサの女」の宮本信子さんのように、経済専門用語を軽やかに駆使して事件を解決させていく。と言うことをやらせたかったので、撮影初日の最初のシーンには随分とテイクを重ねて小出早織ちゃんに経済用語をかつ舌よく語りきるまで頑張ってもらいました。おかげで、そのあとのクライマックスシーンでは最初のテストから素晴らしい知的な小出=萌美を演じてもらうことができ、理想の萌美を撮ることができました。この回はうちの奥さんも森本君の上司の役で出演しています。

 とにかく新しい一皮剥けた小出早織ちゃんをたっぷり堪能していただきたいなと思うし、原作を読んで山田さんの小説のファンになった方にも絶対に落胆させない仕上がりのドラマが出来上がったと思います。いつか映画版とかできたら是非撮りたいなと欲望が湧いてきてしまうくらい面白かった仕事です。と言うわけで、母の死と言うのが間に挟まってしまったせいもあって、「女子大生会計士の事件簿」は僕にとって忘れられないシリーズとなったと思います。実は順調に進めば今日クランクアップとなっているはずなんですが、雨も降ったし大丈夫だったでしょうか?

 明日は朝から「東京少女」のロケハンで、夜から「女子大生会計士の事件簿」の打ち上げです。

 

| | コメント (0)

2008年8月11日 (月)

レイダース4

亡くなった母の葬儀からもう1週間。なんだかんだとめまぐるしく動いてようやくひと休み。「インディジョーンズ クリスタルスカルの王国」をチネチッタに観にいく。思えば、母はこのシリーズのファンだった。1作目、2作目は元気な時に見たし3作目はもう病気になっていたが、それでも観たいということで、帰省した折に札幌の東宝日劇というこれまた今は亡き札幌の戦艦級の劇場で観た。そういった意味で映画の出来とは関係なく、ラストでインディのテーマ曲が流れて来ると一つの時代が終わっていくのだなと言うことを実感する。Times They Are A-Changin'

 で、映画のほうですが、前作からおよそ20年ぶりの新作ということなのだが、ここまでかつてのこのシリーズを反芻する意味がどこにあるのかと?いや、「ケータイ刑事 THE MOVIE」のようにこれまでシリーズを育ててくださったファンへの感謝の意も込めて創られる映画ならともかく、今更1作目のカレン・アレンがヒロインとして復帰したりだの、シリーズの小ネタ拾いには辟易とさせられる。あんなオバチャンがヒロインで冒険活劇に胸は躍らんし、大体27年前の「レイダース 失われた聖櫃」においてもカレン・アレンの存在は決して歓迎されていたわけではなかったのに・・・。

それだけではない、スピルバーグの演出にも大いに不満が残る。アクションは確り撮れているのに何か決定的なカットがない。たとえば、冒頭でソビエト軍がアメリカ兵に扮装して乗り込んで来る時のカット。襲撃の瞬間、人があっという間に倒れていくあの瞬殺のカットがない。冒頭のアクション~ジョーンズの教授エピソード~ジュニアの登場のくだりも、余計なシリーズの後付け説明を蒐集していくので映画が停滞することこの上ない。どうしてこうなってしまったのか?ルーカスは悪いのだ。と決めつけるのは簡単だが、演出が下手糞に見えるのはスピルバーグの責任以外の何物でもない。ジョン・ハートとかケイト・ブランシェット(最近出まくりだな)とかキャスティングセンスは絶妙なのに勿体ない。この活劇映画の代表のようなタイトルを冠した映画がなぜ失敗するのか?アクションシーンがうまく撮れていても活劇はなぜうまくいかないのか?深く考えながら映画館を出た。

| | コメント (0)

2008年8月 8日 (金)

暑い

 午前中から家を出て赤坂のBsiまで出向いてライターの三宅君と脚本打合せ。もう、テレビ局だろうがどこだろうが短パンTシャツ姿ですね。8月7日と言うのは昔の暦で立秋らしいけど、7日~お盆当たりが暑さのピークだろう。打ち合わせ後新宿のビックカメラ~ヨドバシと廻って買い物をするがお目当てのものは見つからず、これも母の葬儀の後始末の品です。その新宿での暴力的な暑さは、ハンマーで後頭部を何度も殴打されるようなくらいにガツンとくる暑さだった。それでも湿気が少ないのがまだ救いか・・・。去年は8月いっぱい風邪をひいていたので、結構寝込んでる時期が長かったけど今年はクランクインを控えているので「これから」が忙しくなる本番ですわ。

 三宅君との打ち合わせでようやく自分の中でのこのドラマの演出の肝を見つけたかと思う。とは言え明日からチーフDの回はもうクランクインだもんなあ。まだ詳細は書けませんが、スタッフ・キャストの皆さんは猛暑の中での撮影となるので、熱中症にならないようにくれぐれも気をつけてほしいなと思います。

| | コメント (0)

2008年8月 1日 (金)

悲しみは空の彼方に

 ダグラス・サーク特集の「いつも明日がある」再見と「悲しみは空の彼方に」を観に行っていたら、北海道から訃報が届いた。母親が亡くなったのだ。丁度「いつも明日がある」の入場直前で、角川の伊橋さんに出くわしてチケットソールドアウトで獲れない人がいたので速攻で譲って、家へ帰り詳細を聞く。今朝心筋梗塞で亡くなったのだと言う。明日カメラテストや脚本打ち合わせを予定していたので、助監督や担当プロデューサーに連絡、なんとか5日のオールスタッフ顔合わせには間に合わせて戻ってこられるように北海道とも連絡を取って段取り。とりあえず、明日早朝出発で北海道へ。いきなり喪主ですね。

 「悲しみは空の彼方に」はスクリーンで観ることは出来なかったが、母の訃報と共に今週観た数々のダグラス・サーク映画は僕にとって忘れられない映画的体験となるだろう。

| | コメント (0)

2008年7月30日 (水)

翼に賭ける命とボリショイサーカス

 早朝に来月撮るドラマの脚本が送られて来たので出かけるまで2本読んで、簡単な感想をライターの三宅君に送りながらダグラス・サークいくべしと言うメッセージを書く。

 と言うわけで、11時からまた渋谷でダグラス・サーク特集の「翼に賭ける命」を観て、また体中を完璧なる映画の技に身も心も震わせてしまう。文武両道と言うか、これほどまでにアクションシーンがダイナミックに描けながらロック・ハドソンとドロシー・マローンのシーン始め芝居場の撮り方がここまで完璧なのはもうお手上げだ。人物の配置からカメラ、人物が動いた時の影の具合、芝居の仕草ひとつひとつが全て言うことなしなのだ。さらにあれだけの激しいアクションシーンの後に飛行機事故で死んだ死体が無造作に投げ出されると言う死の瞬間まで捉えている。それが、ダミー人形のようには見えないとか操演技術の賜物であるとかいうことを超えて死を感じさせてしまう。CGでは絶対出せないスペクタクルとその結果の死をフィルムに焼きつかせてしまったと言う凄さなのだ。最近のハリウッド映画のアクション監督はこのシーンを絶対に見るべきだ。個人的にはプロペラ飛行機の回転するプロペラに異常な執念を燃やす、現代の文武両道監督スピルバーグに「翼に賭ける命」をリメイクしてほしいなと思いました。

 でも、この凄さはDVDだけで確認できるものなのだろうか、やはり劇場のしかもシネスコサイズで体感できるものではないだろうか、家の40インチモニターでもダメだ。だからDVDボックスを買っても劇場に通わなくてはいけない使命感に燃えてしまうのだ。

 今日は1本だけ観て、速攻で東横線に飛び乗り関内で妻と待ち合わせて横浜文化体育館で「ボリショイサーカス」を一緒に観に行く。生まれて初めてのサーカス体験だったが、「翼に賭ける命」が飛行機サーカスが失敗してしまうと言う話だったので、終始緊張感を持って観る。でも、これは楽しかったなあ。空中ブランコと言うのは、テレビの映像とかで観るとそんなに怖くないんだけど、間近で見上げて、例えばブランコからブランコに飛び乗る瞬間の筋肉の瞬発的な伸縮を直接見ると、それが人間の力だけで為されている業であるかをまざまざと感じさせられて、それだけに落下の恐怖感はまさに今そこに迫っていたのだと感じて鳥肌が立ってしまった。なんにせよ、2時間のエンターティメントは心を潤沢にしてくれた。

 ところで、ダグラス・サーク特集で会った中原昌也君に「これからボリショイ行くんだ」と言ったら「僕はもう先週見ましたよ」とすぐに切り返され、その隣にいた青山真治が「え、なんで?みんなサーカスに」と言いたげに思わず中原君を見たのはおかしかった。

 明日は脚本のお勉強の為、サーク特集は一休み。明後日の最終日、もう一度駆けつけることにします。「いつも明日がある」はもう一度観ないとなあ。

| | コメント (0)

2008年7月29日 (火)

アパッチの怒り 南の誘惑

 朝からぴあフィルムフェスティバルでダグラス・サークの「アパッチの怒り」と「南の誘惑」を連続鑑賞。「アパッチの怒り」はダグラス・サークが撮った唯一の西部劇で、馬と斜面を使ったアクションはとても初めて西部劇を撮った監督とは思えないほどのダイナミックさがあった。ただ、時折微妙な間合いでカメラ目線の単独カットが入るのはこの映画が3D立体映画として創られていたからだろう。ロック・ハドソンがインディアンの主人公をコスプレしながら、それでいて途中で騎兵隊姿にならなくてはいけないと言うかなり捻った異形の姿が面白い。それだけで映画の主人公に常に爆弾を抱え出す演出になっており、主人公がこの騎兵隊衣装をかなぐり捨て半裸になって戦闘に駆け付ける姿に映画的な感動を覚えた。

 「南の誘惑」はドイツ製のミュージカルだが、後半は陰謀サスペンスメロドラマになっているのが面白かった。この映画もヒロインがクライマックスで「10年間で嫌いになった」ハバネロを無理に歌い上げていくシーンと同時にサスペンスが盛り上がる演出が素晴らしい。これこそが活劇の語り口と言うことではないかと思った。非常に面白い映画だった。

 この2本の映画を観た後は武蔵小杉に移動してFM川崎のラジオ出演。「トリコン!!!リターンズ」の話とか、ダグラス・サーク、それに8月に川崎の市民ミュージアムで上映される成瀬の「流れる」や「女が階段を上がる時」などについて語る。

 もうすぐまた疾風怒涛の準備が始まるので今は束の間の時間を使って映画を観まくらなくてはと思っています。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧